善と悪について2【自己と概念】
さて、善と悪というものは、本来存在しないことを前項にて解説いたしましたが、そもそも何故善悪の理解を得ることが大切なのか?と言えば、そこには人生の苦を解決するヒントが隠されているからです。
極論ですが、人間の抱える苦しみというのは、全て自己都合、エゴによって発生しています。
人間の苦しみというものは、得てして自分の身に降りかかった災難によって起こります。
苦痛の原因は、人間関係がうまく行かない、人から認めてもらえない、お金に余裕がない、経済的な困窮、仕事ができず能力が低い、など実に様々です。
しかし、苦痛の発生をより根本から考えるならば、それは生きる者であればいずれ避けて通ることができない、生老病死(生まれることも含め、老いること、病に倒れること、死ぬこと)によって起こります。
我々は生きるために、この身体の健康を保つ必要があります。そのために、生来より肉体(代謝)、そして周囲の環境(認識)、精神状態(認知)を健全に保とうとする意志を持っています。
その意思を脅かすもの、いずれ命に関わるかもしれない危機に対して我々は恐れを抱きます。
身体に起こるケガや痛み、空腹や疲労に苦しむのは、身体が壊されることで命の危機に陥ることを防ぐためです。
もしも痛みを感じなければ、ケガや病気に対して何の手も打てず、いずれ死んでしまうでしょう。事故に遭ったり、野生の動物に襲われても何も感じないかもしれません。
そのような状態下では、自分の身に降りかかる様々な危機に対して正しい行動を取る事が出来ません。
苦痛をもたらす危機を進んで避けることが出来なければ、生きることそのものが難しくなり、自然界から淘汰されることになります。
また、周囲の環境の変化を敏感に察知することも、生きるためにはとても大切な能力です。自分が苦労して耕している畑が、もしも動物に荒らされてしまったらどうなるでしょう?食べ物が充分に得られずに飢えて死んでしまうかもしれません。
また、台風や洪水が起こって家が流されてしまったらどうなるでしょう?住む場所を失い、家族皆が路頭に迷ってしまいます。もしも台風が来る予兆があれば、事前に察知して対策を考えなければなりません。
自分の管理する田畑、それに近づいてくる者、壊す者、また共に協力している家族などの状態、すなわち自分を守ってくれる環境の状態を把握することはとても大切です。
もしも環境の変化を察知し、そこに問題(苦)を認識することができなければ、環境の変化に対して我々は適切な行動は取れないでしょう。
精神(記憶)もまた、危機に対して適切な行動を取るためには極めて大切な要素です。
いつもオオカミが家族を狙って襲ってくる。子供が狙われる。そのような環境であれば、オオカミはとても危険な動物であることを覚えていなければなりません。
オオカミに恐怖を抱くことができるからこそ、オオカミを追い払ったり、オオカミから家族を守ろうとする感情が湧いてくるのです。
恐怖の記憶、そして恐れや怒りを持つことは、過酷な自然を乗り越えて生き延びるためにはとても大切な力です。
生命にとっては、命を維持するものは善、命を絶つものは悪です。
人間は生きる為に心地よいと感じるもの、そして苦痛だと感じるものを産まれた時から持っています。
苦は、命の危機を避けるために不可欠な衝動です。それは人間が生まれ、生き延びるためには絶対不可欠な感覚であるがために、我々に生来より備わっているのです。
何に苦痛を感じるか?
我々の苦痛は、全て身体の破壊を防ぐために、生命を守るために存在する感情です。
空腹、痛み、疲労、不快感・・・これらの感情は全て不快なものですが、これらの感覚を正しく不快だと感じることが出来なければ、命を保つことはできなくなってしまいます。
しかし実際には、人間の苦痛には様々なものがあります。
友人と喧嘩をしてしまった。人を傷つけてしまった。酷い仕打ちを受けた。お金が足りなくて困った。元気が出ない。容姿が醜い。成績が上がらない。仕事で大失敗をしてしまった。欲しいものが手に入らない。
根源的な話をするならば、これらの苦痛は、すべて自分自身の生命を維持したい、という欲によって湧いてくるものです。
もしも、自分の生命を守ることを大切に感じないならば、これらの事象から苦痛が発生することも、またないことでしょう。
- 友人と喧嘩をすることを恐れるのは、友人から避けられることで自分の社会的評価が下がるため、もしくは自分の生きる環境が心地よいものではなくなるためです。敵が増えることは、様々な点から生きる上で不利になるでしょう。
- 人を傷つけてしまうことを恐れるのは、罪を犯した結果として、自分が周囲からひどい扱いを受けることを恐れるためです。
- 酷い仕打ちを受けることを恐れるのもまた、立場を軽んじられる、尊重してもらえないことで他者からの支援を得られなくなる一方、「攻撃しても良い対象」と見做されることを恐れるためです。
- お金が足りなければ、当然生きる為に必要なものが手に入りません。
- 容姿が醜いことを恐れるのは、他者から軽んじられることで、社会的に不利な立場を強いられるためです。
- 成績が上がらない。仕事で大失敗をしてしまったなど、能力的な問題で恐れるのも、自分が生きる為に必要なものが手に入らなくなる恐れがあるためですね。
このように書くと、すべての恐怖や苦痛は自分の身勝手な都合から起こっている感情であると感じるかもしれません。
しかし、他者の抱える苦を理解できるのは、ひとえに自分もまた同じ苦痛を感じることができるためです。
自分にとって苦しいから、他者にとってもまた苦しいことだと慮ることができるのです。
「苦」と「恐怖」という言葉を使いましたが、これらの文面から、恐怖とは、苦を受けることを予期するために発生する感情であることが分かりますね。
「苦を避けたいと思う心が恐怖を作るのです。」
実際に身体が味わう苦痛、そして心が味わう記憶・恐怖から作られる苦痛。
我々は、これらを感じることを恐れ、苦しみ生きているのです。
もしも生命が完全にかつ健全に守られ、そして恐怖を感じることがなければ、我々はおそらく苦痛を感じることはないでしょう。
苦をなくすために在るべきもの
我々の感じる苦しみ、それは生命を維持するために感じているものです。
すなわち、我々が生きるために必要な精神、肉体、そして環境を維持するために必要なものが失われる、維持できなくなる、手に入れることが出来なくなったその時に苦痛は生じます。
自分が欲しいもの、在るべきものだと思っているモノが手に入らない時、そこに苦痛を生じるのです。
より健全な生命を維持するためには、自分にとって必要なものや経験を取捨選択し、選び取って得続けることが極めて大切です。
もしも食べ物が得られなくなれば我々は飢えてしまいますし、食べ物を得るために必要な道具や知識、経験は常にアップデートし続けなければなりません。
これらを得る手段が潰えたり、もしくは得ることに対する欲求が失われたとき、それは転じて生命の危機となります。
「あるべき姿」(アイデンティティ)を持つことは、命を保ち、繋ぐうえで必要不可欠です。「DNA」のように。
生命を保つことは生き物にとっては絶対必須要素であり、生きるうえでは絶対に覆せない欲求です。
「あるべき姿」こそが、我々にとっては生命そのものなのです。
ゆえに、「命を保つ欲を持つために、あらゆる手段を尽くす欲を持つ」ために、人間は苦痛を経験することになります。
在るべきもの…
- 自分はエリートなのだから、周りの能無しよりも高給をもらって当然だ!
- 俺は強いんだ!だから、弱者を攻撃して虐げる権利がある!
- 私は偉い人間だ。だから周囲の人間からもっと尊敬され、敬われるべきだ!
- 私はとても良い人です。正直者で悪意がない。とっても善い人。そんな私を周囲の人たちはもっと尊重すべきです。
- 自分は生かされているだけで有難い。だからもっと自分を壊してでも努力すべきだ。
- 妻は夫の私にもっと尽くして然るべきだ!
- 人間は皆、もっと賢くなければならない。
- 悪いことをする奴が許せない!神に裁かれて然るべきだ!
苦は現実とイメージとの乖離により生じる
「自分が理想形とする生命」を保つための欲、そしてそれを得るために努めなければならない現実。
これらの間のギャップ、差異が大きいほど、人間の苦痛は肥大化します。
のどが渇いた。水道の蛇口を捻り、水を飲む。
のどが渇くことは苦痛です。水道の蛇口を捻ることもまた苦痛です。水を飲むことも苦痛ですが、乾いたのどを潤すためには、これら一連の所作を経なければなりません。
これらは全て、理想と現実との間にギャップがあるために生じる苦痛です。
- のどが潤う ⇔ のどが渇いている
- 動く必要のない身体 ⇔ 水道の蛇口を捻るために身体を動かす
- 水を飲む必要がない ⇔ 水を飲む必要がある
理想形の状態からの「変化」。人間は、「恒常性(一定の変わらない状態)が変化することに対して苦痛を感じる」のです。
恒常性を維持する。これが生命が維持されるために必要な大原則なのです。
しかし、水道の蛇口を捻りさえすれば水が出てくるのですから、これらの所作は苦痛であったとしても、たいした苦痛ではないでしょう。
しかし、もしも実現が極めて難しい欲を持っていたとしたら、その苦痛はより激しいものとなります。
有名大企業の社長に俺はなる!
社長になるための勉強をする。エリート街道を歩み超一流大学を卒業する。ライバルを皆蹴落とし、一番で卒業し、大企業に就職する。大企業で目覚ましい成果を挙げ、大企業で最年少で昇進し、一躍幹部候補に躍り出る。
考えるだけでも頭が痛くなりそうですが、それでも自分が稀代の天才で文武両道、良家の嫡男でコネクションも完璧なら、意外と難しくはないかもしれません。
しかし、能力が平凡なただの一般人だとしたら、これらを実現することは茨の道でしょう。平凡な人がこのような道を歩もうとするなら、その苦痛は想像を絶するものになるに違いありません。
このように、人生において解決することが困難な苦痛は、実現困難な理想を掲げ、それに奮闘することで起こります。
しかし、そもそも生きることさえも困難な境遇であるならば、不幸なことですが生きようとする限り強い苦痛に苛まれ続けることになるでしょう。
苦を除くために必要なもの 【視野の拡大】
日頃から何を必要と感じ、何を得ることを欲し、何を保つことを是としているでしょう?
自分が対象を認識し、そしてそれらを「自分の一部だと解釈した時」、そこに苦痛は生まれます。
- 学歴はあなた自身でしょうか?
- 身分や地位はあなたそのものですか?
- 恋人、家族はあなたのものですか?
- 能力はどうでしょう?才能や権威は?
- お金はあなたの存在そのものですか?
- あなたの身体は?身体は、あなたの思い通りになりますか?
人間は多かれ少なかれ、必ず欲を持って生きています。それが例え身体を維持することに直接関係がなかったとしても、そこに「欲する」という動機を持てば、苦を生ずる源泉になります。
欲するものは、それが実在性のあるものか、抽象的なものであるかは一切関係がありません。
我々人間は、極論してしまえば概念を欲し、概念を食べて生きているのですから。
物質と概念、この両者の方向性が一致し、生命を維持するための必要条件を満たしさえすれば、我々の生命は存続することができます。
恐らく、細胞や集合体である生命自身にとっても、自分たちがよりよく生きる為に必要なものは理解が及ばないのでしょう。ゆえに、概念という「経験と予測」から成る理論を指標に、我々は欲を持ち生存しようとするのです。
生命も常に暗中模索なのです。目的も分からず、ただ何となく生きている、とも言えるかもしれません。
概念の暴走によって生じる苦
しかし、認識が狭く、知恵が得られず、無明の状態にあれば、この自己の生命を維持するための概念に我々は足元を掬われることとなります。
人生に絶望し、生きることそのもの自体が苦痛となる理由、それは、生きる為に必要な概念の取捨選択を誤っているために起こります。
- 絶対実現不可能な願望に執着すること
- 精神衛生を保つために矛盾を孕んだ概念を盲信すること
- 自己を守るために誤った概念を保持し続けること
過った概念を持っていると、現実と理想との間に存在するギャップを認識する力は失われます。
- ただの一般人が妄執に囚われ、例えば自分が大統領になるべき人間だと思い込んだり、神に選ばれた者だという妄執を思い描いたとしても、それが実現することはありません。「歪んだ認知」は、結果的に望みが叶わないという絶望と引き換えに苦を増大させることになります。
- 自分が劣っている人間だ、劣っている自分を受け入れられない。そのような劣等感に苛まれた状態にあると、自分の生存価値や生存欲を脅かす危険があります。そんな時、人間は現実に対する客観的な理解という努力を捨てる代償に、現実に対する歪んだ認知を得ることでこれを回避することがあります。それこそ、自分が劣等扱いされるのは、周囲の人間に正しい判断力が欠けているためだと思い込んだり、実は自分には素晴らしい隠された才能がある!と思い込んだりします。
- 自分の立場を守るために特定の概念を保持し続けることも良くあります。落伍者たる落ちぶれた武士が、自分の武士としての誇りを捨てられず、尚も命を犠牲にしてでもその誇りに殉じることがあります。
根源的に、人間や生命自身が保持している「自分自身」というものもまた、各々が抽象的なものです。
我々は常に概念に生を見出し、概念の内に生きているのです。
本来、「物質には自他の垣根など存在しないという事実」がこの「自他を分ける」ことの難しさを助長させているのでしょう。
何故、苦しむのか?
何故、苦しむのか?何が原因で苦を生じるのか?
苦の起承転結に対する明確な理解があれば、それは苦ではなくなります。
苦しみは、自分が在るべき姿、存在すべき姿を見誤っているために起こるのです。
自分の現状に対する因果、起承転結、自他との関係、終着点を明確に理解することができれば、それは「自分の生そのものを苛む苦」ではなくなります。
苦を避ける方法、なぜ自分が苦境に立たされているかが手に取るように分かるようになれば、現状の苦のみに執着する必要がなくなるのです。
- 成績が悪くて苦しい。
そこには「多面的な事実」が存在します。自分の才能が足りない。勉強の方法そのものが誤っている。親や教師の指導に致命的な欠陥がある。勉強に集中できる環境ではない。勉強の邪魔が入る。様々な誘惑に負ける。そもそも勉強を頑張る動機がない。
現実の多面性を理解できなければ、人は自分の思考の内にある、小さな箱に現実を収めるために、現実の一部を切り取って曲解します。物事を多面的に捉えるよりも、自分が馴染んでいる一元的・単純な概念で現実を理解した方が楽なのです。
人間は概念を作るたびに新たな苦を生じます。
歩けない人にとっては歩くことは苦痛です。
しかし、いずれ歩けるようになることを知っていれば、その苦は自己成長を達成するための過程でしかなく、自分にとって必要な苦であることが分かります。それが絶望ではなくなるのです。
解釈は苦を作り出す一方で、苦は解釈次第でもはや苦ではなくなるのです。
解釈は、一元的な一方向性のみを有する時、そこに脱することのできない「苦の袋小路」を作り出します。