善と悪について【広い視野を得るために】
親切で礼儀正しく、他人を尊重し敬う気持ちのある人、品行方正で常に人の幸せの事を考えて生きる人は「良い人」です。
社会の幸福のために尽くすことは、他者のみならず自分自身の幸福に繋がります。
何故なら、人間は皆で支え合い、助け合って生きているのですから。
しかし、自分を犠牲にして尽くしすぎることは、自分のためにはなりません。それに自分が倒れると悲しむ人もいるでしょう。長い目で見れば、自分が倒れることは、自分を大切に思ってくれる友人や家族のためにもなりません。
礼儀正しい人 無礼な人
他人に尽くす人 他人を攻撃する人
良い人 悪い人
「善」 と 「悪」
我々はいつも何かを見るたびに、それが良いものか、悪いものかを「判断」して生きています。
良いおこないと悪いおこない、「善悪の判断」。
時にこの線引きはとても難しく、絶対に良い、絶対に悪いとはなかなか決められないものです。
- 今働いている会社でひどい扱いを受けているから辞めてしまいたい。けれども、辞めると残された人や先輩に迷惑がかかる。
- 治安の悪い場所で自分を守るために武器を携帯しなければならない。けれども、その武器で誤って人を傷つけてしまうかもしれない。
- ある新薬を使えば、苦しんでいる人を助けられるかもしれない。しかし、未知の副作用で悪化する恐れもある。この薬を投与して病気を悪化させてしまった医者は悪人か、善人か。
- 二人のうちの片方だけが助けられる、どちらかを必ず犠牲にしなければならない(トロッコ問題)。
- 親の強い反対を押し切って家業を継がずに家を出た子供。成功したら善人?失敗したら悪人でしょうか?
善悪の判断。これは、最初から決まっているわけではありません。
最初にそこにあるのは、ただの物事です。ただ、そこにあっただけなのです。
「誰かが何かをした。何かを思い、行動を起こした。そして、その結果が何か起こった。」
それを良いこと、悪いことと決めているのは、自分自身です。
善・悪という線引きは、自分が勝手に作り出したものです。
例えば、「他人を傷つけることは悪いこと」であり、「他人を支援してあげることは良いこと」ですね。
しかし、この善悪の判断も、その人の状況や立場によって変わります。
例えば、襲ってくる暴漢を止めるために、暴漢を傷つけることは悪いことでしょうか?
いじめを繰り返している人を応援することは良いことでしょうか?
不治の病に絶望している人を、善意から安楽死させた医者がいました。彼は殺人犯として逮捕されてしまいました。彼は悪人でしょうか?
とても貧乏な男がいます。彼の娘が病で死にかかっていました。
薬さえあれば病を治すことができますが、彼はどう頑張っても薬を買えるお金を作ることはできません。そんな彼にお金を貸してくれる人は誰もいません。追い詰められた彼は、娘のために会社のお金を横領してしまったのです。
彼は横領の罪で捕まって処刑されてしまいました。彼がお金を横領したせいで会社が潰れてしまったのです。たくさんの失業者を出し、そして社長は自殺未遂まで起こしました。彼は悪人でしょうか?横領されたことを報告した会社が悪人なのでしょうか?法を順守し、彼を処刑した人々は悪人ですか?
目の前に汚い服を身にまとうだらしない人がいます。彼はだらしがないから悪人でしょうか?実は彼の正体は、「キアヌ・リーブス」です。
スマートフォンのディスプレイを作るために必要不可欠なフッ化水素。これがなければ、我々の手元にスマホはありません。しかし一方、フッ化水素はとんでもない劇毒です。身体に触れると非常に危険な毒物のひとつです。
フッ化水素は善でしょうか?悪でしょうか?
クルマは我々の生活に欠かせない乗り物ですが、クルマが存在するせいで、毎年国内で沢山の事故が起き、たくさんの死者が出ています。
クルマは善でしょうか?悪でしょうか?
リンゴは善ですか?悪ですか?
物を落とすことは善悪のどちらでしょう?
人間は、今持っている情報、そして今までの人生を通した経験を手掛かりとして、目の前にあるものが善か悪かを判断しています。
しかし、その情報に少し尾ひれがつくだけでも、その善悪の判断はコロリとひっくり返ってしまうのです。
では、一体何が善で、何が悪なのでしょうか?
もともと、目の前に起こっている物事には、善や悪はありません。そんなものは最初から決まっていないのです。
善か?悪か?それを決めているのは自分の勝手な判断です。
この世界には本来、善悪など存在しません。
善と悪、それは、人間の心の中だけに創られた世界なのです。
本当の世界、そこには、ただその物事が転がっているだけです。
日頃から善悪のレッテルを貼った生活をしていると、目の前に在る「悪」と決めつけた存在の、「善」の部分が見えてくることはありません。
しかし、現実では
「悪人だと思っていた人が、実は善人だった。」
「善人だと思っていた人が、実は悪人だった。」
このようなことは日常茶飯事です。
善悪で物事を見ていると、目の前にただ存在する「事実」は見えてきません。
自分の創り出した善悪の色眼鏡で物事を捉えていると、実は素晴らしい人を悪と決めつけてひどい態度を取ってしまったり、逆にとんでもない詐欺師を善人だと誤解して歓迎してしまったりするのです。
善悪のレッテルを貼る前の世界 陰陽
太極図というものを見たことはあるでしょう。
これは、黒い所が陰、白い所が陽を表しています。
陰と陽を善悪に当てはめるならば、陽=善、陰=悪となります。
本来存在する世界は「円」です。善と悪の両方を含んでいます。
善と悪、その二つが均等に存在する世界が、この世界の本来の姿です。
また、善と悪は互いに支え合っています。
善が存在しなければ悪は存在できません。
悪が存在しなければ善もまた存在することできません。
善と悪、この二つが明確に線引きされ、分けられているからこそ、善悪はともに存在することができます。
悪を働く者がいるから、法が作られます。
善を働く者がいるから、法は守られるのです。
また、善の中に黒い点があるでしょう。これは、善のうちにもまた悪が、悪のうちにもまた善が存在することを示しています。
他人を助ける善人のなかにも、口が悪い人や態度が失礼な人がいます。
他人を攻撃する悪人の中にも、家族を大切にする人や仲間を守ろうとする人がいます。
また、善は悪に、悪は善になることがあります。
今は良いとされていることでも、時代が変わると悪になるのです。
昔、風邪を引いた人の血を抜く「瀉血」と呼ばれる治療が一番善い治療だとされていました。しかし、現代でそんな治療を受けさせられたら、大抵の人は怒るでしょう。
今の薬を飲むという治療だって、未来にはトンでも治療になっているかもしれません。
戦争の時代はお国のために身を扮して働くことが善でした。しかし、現代では人の命を軽く扱うことは悪ですね。
善悪は時を経ることによって、コロリと入れ替わるのです。
このように、本当の世界は善と悪の両方を含んでおり、一方なくしては、もう一方も存在できません。
善と悪、それは、本来はひとつであるはずの世界を、勝手に二つに分ける行為です。
勝手に二つに分けて、一方だけを可愛がるのです。
善ばかりを愛でていると、世界の本当の姿は見えてきません。
悪だけを働いていても、世界の本当の姿を知ることはできないのです。
善悪を決めるだけで、我々の視野は狭くなってしまいます。
二つの目のうちの片方が閉ざされてしまいます。
世界の半分を悪と決めつけて投げ捨てているのです。
善と悪。善だけを持とうとすると、その片割れであるはずの悪を捨てることになります。
我々は、本来ひとつであるはずの世界を、無意識のうちに狭くしています。
その善悪を決めるという判断そのものが、実は誤っているのです。
本来神によって造られた世界を、もしくはそこにただ存在するだけの現実を、
自分の都合で勝手に二つに分けて、片方だけを贔屓しているのです。
あなたが持っている善悪の判断、それは必ず正しいと言えるでしょうか?
いつも間違わず、必ず正しいことなどありません。
善と悪は入れ替わります。
あなたの善の内には悪があり、あなたの悪のうちにもまた善の種があるのです。