舎利子 道 自己認識療法のブログ

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善と悪について3【法と脱法】

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我々は法を守り、法を維持することで互いを尊重し、利己利他により、社会的幸福を得られる社会を実現しようとします。

 

善と悪は本来存在しないものです。しかし、何らかの目的意識、方向性を達成しようとした時、そこに目的を遂げるために必要なもの、そしてそれを阻害するものという善悪の基準が出来上がります。

 

法を守り、法を行使するのは、ひとえに個人の最大の幸福、また社会の最大の幸福を追求するからにほかなりません。

しかし、自分と他人が存在し生きる限り、互いに比較し、利害によって対立し合い、損得を勘定してしまうことは避けられません。

故に、ある一個人の欲を我慢させることで、公益を図ることは、少なからず避けられないことです。

互いに利益を尊重し合い、必要以上に相手を害さずに互いに幸福を享受する。

法とは自他共存共栄のためには欠かせないものです。

 

共存共栄により平和と幸福を実現するために創られたものこそが法であり、それを維持することが法の役割です。

しかし、法とは法が作られた時点で最も益となるであろう妥当点、これさえ守っていれば間違いないであろうと思われる現時点のルールを明文化したものです。

故に、明文化されたルールが時代を経ても、現在でも同じ解釈で自他の最大限の幸福を追求することができるとは限りません。

 

自然界、社会というものは、生き物のように常に動き変化しています。

過去に創られた法を正しいと信じ込み、ただ愚直に守り続けることが本当に自他の幸福につながるとは限りません。

未来永劫絶対的に正しいルールなど存在しないのです。

 

 

人に法を強要することは善か悪か?

もしも自分が法を守り、法によって守られているならば、法を守ることは正しい選択です。 

 

しかし、もしも人が法が存在することによって苦しめられていたとしたら、人に法を守らせることは正しい選択でしょうか? 

法は秩序を守るために創られたものですが、その創られた秩序の形が常に正しいとは限りません。

 

例えば、インドには古来よりカースト制度と呼ばれる身分制度が根強く残っています。

日本でも、かつて士農工商身分制度が存在していました。現在は学歴や能力によって社会的にランク付けが為されていますが、こちらも身分制度と似た役割を果たしています。

 

身分制度そのものが絶対に間違っているとは言い切れません。人が社会において各々の役割を果たすことで、ようやく社会全体が健全な営みを維持することが出来るのですから。

もしも身分制度が存在せず秩序が保たれない社会であれば、各々が欲望のままに他人を襲い、物を盗み暴力を働く社会が正当化されます。そのため、各々が役割を担い、社会的な役目を果たし、秩序の破壊や混乱を防ぐために、身分制度という法」が必要な時代がありました。

 

国の年貢や福祉を正しく維持管理する役割を担っているのが、支配階級である武士です。

それが、ただ単に支配者である武士が気に入らないという理由だけで農民らが蜂起し、一方的に武士を追い出してしまうとどうなるでしょう?

農民は年貢の管理方法や活用法、また外敵から身を守るための術をまったく身に着けていません。欲しいままに今手元にある年貢を食べきってしまい、しまいにはみんな飢え死にしてしまうかもしれません。今までは年貢の管理を武士を担ってもらっていたのですから。

結果的に、他国の侵攻を容易に許してしまい、彼らは敗北し、奴隷として使役させられる羽目になります。

実際に、ジンバブエという国は支配者を一方的に弾圧し追放した結果、最極貧国になってしまいました。彼らには制度を維持管理する大切さ、守ることの必要性、働くこと意義が理解できなかったのです。

 

しかし、もしも支配階級たる武士が、年貢を無駄遣いし贅を尽くし、農民を疲弊させ、しかも他国の侵略に対して対峙することをせずに逃げ回るような真似をしていたら。

ただその支配階級に居座っているだけで、怠惰を貪り続けるだけでまったく何もせずいたら。

役目を果たさない支配者は民にとって害でしかありません。農民たちにとっては、そのような支配者は武士の座から退いてもらった方が賢明です。

 

法とは、言ってしまえばこの武士のようなものです。役割を果たす分には我々の秩序を守りますが、不要な束縛や強制は不徳を生んでしまいます。

 

法を守らない人を咎めることは善か悪か?

人には生まれ持った立場、与えられた役割があります。

与えられた役割を果たすことができるか否か。

または、その与えられた役割を担うことが本人にとって幸福となるか?

その状況次第で、本人が守るべき法や従うべき者は変わります。

 

自分が一般市民として働き、役割を果たし、その働いた分の対価や役割を果たした分の報酬を社会から享受することができるならば、自分にとっては法を守り、秩序を保つことは正しい行いでしょう。

 

しかし、もしも自分がしっかりと働き、役割を果たしているにも関わらず、対価がまったく支払われず、なおかつ社会から迫害されるような立場であるとしたら?

自分にとってそんな法を守る意義は全くありませんし、秩序に盲目的に従っているだけではまともに生きていくことさえできません。

 

生まれついて地域の立派なお寺様の住職の息子は、その地位を継ぎ、先祖から頂いた方を富と仕事を継承し、守り維持することが正義です。

 

しかし、 幕末の乱世の時代に徳川家に生まれ育った者、または倒幕と攘夷を目指す薩長武士の跡取りとして生まれた息子は、ただ既存の法を守り維持していれば良いという訳にはいきません。彼らは混乱の世を開拓し、新時代を築くという責務があります。国や民の希望を背負う彼らは、ただ安穏と平和を貪って暮らすような真似は許されません。

 

ただ秩序を守るだけで安楽に暮らすことのできる人は、安楽に過ごせば良いのです。

しかし、混乱の渦中にあり、他者からの支援も受けられず法に従うことが自殺行為に等しい佳境にいるならば、現在の歪んだ法に反旗を翻し、世を改革するために尽力することが結果的に自他の安楽につながります。

 

法を守ることが善か悪か?それが益をもたらすか損をもたらすかは、欲の相対速度によって変わります。

法に反旗を翻す人は、先祖から受け継がれた家系をただ守ろうとしているだけかもしれません。

逆に、法を守ろうと尽力している者は、ただ単に自分の権力に執着しているだけであることもあります。

 

もしも相手の動機や事情をまったく鑑みずに、ただ法を守らないから悪だと決めつける行為は、果たして知恵のある行いと言えるでしょうか?

愚者を咎めることは決して悪ではありません。社会の秩序を保つためには、愚かな行いを咎めるのもまた必要な行いです。

しかし、法を破る者には、法を破る者の理があります。その動機は、各々の事情によって違います。

思考停止して、ただルールを破る者を悪だと決めつけ責め咎める行為は、視野が広い者の行いとは言えません。自分の益にはなるかもしれませんけどね。

 

法を破る者は現在の法の下では悪です。

しかし、その善悪も時と場所によっては反転し、入れ替わるのです。

因果を理解するためには、善悪の垣根を取り払い、その出来事の起承転結を理解しなければなりません。

 

自分が法を守って幸福になれたからと言って、他人もまた同じ立場にあるとは限らないのです。

 

法を守る人は偉いのだろうか?

  • 坂本龍馬は既存の歪んだ幕府と法を打ち倒し、外国に負けない強い国を作ることを夢見て邁進しました。
  • 200年以上の栄華と平安を築いた江戸時代は、徳川将軍の豊臣家に対する裏切りにも等しい行いによって築かれました。
  • アメリカ合衆国はイギリスの一方的な支配統治に反旗を翻して独立、誕生した誇り高い国です。
  • 仏陀カースト制度や歪な既存宗教に疑問を抱き、正しい理論に基づいた「法」を世に残すために生涯をかけて活動しました。

これらの偉人たちはみな、既存の法を破ることで新しい秩序を作ることに尽力し、大役を果たした人々です。

 

彼らの蛮勇と旧体制の破壊・改革があったからこそ、現代の社会体制が作られる礎となりました。

彼らは、法を冒した愚か者なのでしょうか?

彼らのような行動を起こさず、ただ法を冒すまいと何もせずにひたすらに安楽に生きることが果たして賢者なのでしょうか?

苦難にあえいでいる人々を見過ごし、ただ既存の法を守ることだけが正義なのでしょうか?

 

インディオアステカ帝国は、先祖から賜った言い伝え、法を頑なに守り、異人を歓迎し妄信してしまったために、彼らによって侵略・略奪を受けて滅ぼされてしまいました。

みだりに法を守ることは、時としてはたくさんの犠牲を生むのです。

 

 

法の持つ権力

法を守り、法に従い法を重んじることは、法自身に権力、強制権を与えることと等しい行為です。

法とはそのルールが決定されるだけでなく、それを順守しようとする人々の意思がなければ効力を持ちません。

 

もしも新しい法律が施行されても、誰もその存在を知らない、誰一人として守る気がまったくなければ、その法が誰かに破られても誰も咎めることはありません。法を冒したとしても、罪の意識を持つこともまたないでしょう。

 

法を知り、法に従うことは、その法に力を与えることになります。

強大な権力者がいる。その権力者が法を定めている。そして、その権力者に自分が付き従うことで、その権力者は自分が譲り渡した分だけ、ますます強い権力を得るのです。

権力者は、自分独りでは何もできません。権力は、周囲の人々が権力者を必要とし、その権力者に自分自身の意思決定権を譲り渡しているからこそ、もたらされるものです。

自身の持つ権力を譲り渡した人々の力。それがひとりの権力者に集中することで、強い権力、法を施行し、実行する強制権を得ているわけですね。

権力は、周囲の人々の利得を基準として成り立っています。

 

すなわち、法とは現時点の権力そのものであるため、決してそれが正しいとは限りません。沢山の人々の賛同を得ているほどにそれは正しいと感じられるかもしれませんが、例えば衆愚政治などと呼ばれるように、その決定が愚かしいこともまた在るのです。

絶対に負けると知りながらも戦争を継続していた、かつての日本軍のように。

 

 

法を守ることは本当に恩恵につながるだろうか?

法とは、今現段階で正しいだろうという予測を元に作り出されたルールです。

それが意図した通りの力を持つ事もあれば、当然ながら予想外の抜け穴や不利益をもたらすことがあります。

すなわち、法に求められるルールもまた、時代とともに変化していくのです。

もしも法を元に繁栄や平安を築きたいという意思があるならば、その意思こそが最も尊重されるべきなのであり、ルールそのものは時代の流れに合わせて変えていかなければなりません。

 

自身が法を守ることは社会的信頼を得るためには大切なことです。

しかし、だからと言って法を破る者を心のうちに無下に責め立てる感情を持っているならば、それは自分自身の心の平安を脅かすことになりかねません。

法の下に共存共栄する社会においては、ルールを破る事は悪いことです。

しかしだからと言って、ルールを破った者が根っからの悪人とは限りません。

ルールを破る者には、破る者なりの事情があるのですから。

 

特に、法律でも戒律でもないにも関わらず、自分が勝手に作り出している「マイルール」には要注意です。

自分で勝手にマナーだと勘違いしている所作、挨拶をしない人間は無礼者、即ち悪人だなど、皆が共通認識として持っていないマイルールは、誰の賛同も得ていないがゆえに、強制力も、権力もありません

そんな歪んだ認識に基づいたマイルールで人間を白黒付けて判断していると、本来素晴らしい知恵や才能を与えてくれる人を無碍にすることになってしまいます。

礼儀正しいことは素晴らしいことですが、だからと言って礼儀を知らない他者を責めて良い理由にはならないということですね。

 

ルールを守る者、破る者。どこまでを受け容れる自分次第です。法とはまた無関係に、自分にとって不利益になる人、馬の合わない人というものまた存在するのですから。

自分の心のキャパシティ、限界を認めるというのもまた大切なことです。

それを踏まえたうえで、少しでも広い心を身に付けられると良いですね。

人生をよりよく豊かに生きるために。

 

 

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