生きる意味 生存欲と自殺衝動
人は、時に生きる意義やその目的を失うことがある。
そんな時、時としては死を選ぶことも個人の選択の自由にも思える。
しかし、仮に自殺衝動や虚無への希求が湧いた時。
その「死にたい」と内から湧き出る衝動は、果たして本当に自分の意志なのだろうか?
もしもそれが「本能」や「思い込み」によってコントロールされた結果だったとしたら?
果たしてその衝動に従う価値はあるだろうか?
感覚の喪失は、自己の喪失と等しい
我々人間は何のために存在するだろうか?
生物はいったい、何のために??
哲学者の中には、確固たる崇高な目的があって我々は存在していると主張する者もいれば、逆にそのようなものは存在せず、我々はそこらに転がっている、ただの石ころと同じものだと主張する者もいる。
互いの主張は双方ともにもっともらしくは聞こえるが、しかし反面彼らの主張を確たるものとして証明するに至る証拠は、今のところ一切発見されていない。
未来永劫、それらの証拠が発見されることはないかもしれない。
それこそ、意識を持った「神」の存在でも証明されない限り。
そもそも、我々がこのような問いを抱かずにいられないのは、詰まるところ我々が「死」という運命から逃れられないためだ。
死は生物がみな等しく持っている共通のゴール、エンドポイントであり、生物である限り逃れられない宿命でもある。
「死」は、生という苦痛からの永遠の解放とも言えるし、永遠の無と永遠の苦痛の始まりであるともいえるかもしれない。
「存在すること」に対する希求。それが満たされないであろう死は、直感的に考えても恐ろしいものだ。
我々は生物的な「感覚」(視覚や嗅覚、触覚など)を得ることで、初めて、自身が今ここに存在している実感することができる。
そのため物理的、もしくは機能構造的には「自分」という構造そのものは、本来存在していないと言える。が、個が保有する感覚が「自分」という「現象」を構築しているという事実は違いない。
故に我々にとっては、これらの「感覚が破壊される」こと、即ち「死」が自分を含めた一切の世界を失うことと等しいのだ。
生物的に存在する理由
死は恐ろしい。しかし、回避することはできない。
この永遠に終わることのない苦痛に対し、自然界はひとつの答えを恵与してくれる。
自然界の生物は、各々が生き抜く為の方法論こそあれど、実のところ何らかの目的を持って存在しているわけではない。
生き残った者が繁栄し、それ以外の者は消失していく。ただそれだけの事実が支配する世界だ。
ゆえに意図的にこの流れに逆らうことのできる我々は、「ただ生存する」という生物的本能から解放された存在であり、生きる目的を自分自身の意志で自由に決められる希有な存在だと言える。
しかし反面、我々の根幹が生物であるという事実には変わりがなく、死から逃れられないという宿命も変わりない。
そう、生命の存在意義は「存在すること」そのものだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
「生存する」という道理を外れた生命は、自然界から淘汰されるように出来ている。
死を安易に享受する者は、自然界では容赦なく淘汰される。
生に対する執着が強い者が選別され、生き残る。この選択は太古より世代を経て繰り返されてきた。
生に対する執着がより強い者だけが生き残るがゆえに、「死」はより大きな苦痛、そして恐怖として経験されるのだ。
地上の生物はすべからく、そうした長い歴史の中で淘汰を繰り返し進化してきた。
意識は生命といえるだろうか?
我々の「意識」の根底は生命に支えられている。
生物としての肉体、そして肉体を構成する細胞がなければ、我々はまた存在することさえ許されない。
しかし、果たして我々は「生命」そのものなのだろうか?
今一度、問わなければならない。
何故ならば、我々は時として「生き延びる事を放棄」するからだ。
例えば、自己嫌悪に陥る事や、幸福という感情を追求すること。これらの感情は「生存すること」そのものとは無関係だ。
寿命が縮んででも喫煙や飲酒を優先する人もあれば、刹那的な幸福を味わうために人生を投げ出す人もいる。
精神的満足を得るために、命を投げ出してしまう人もいる。
食欲や睡眠欲など、生存のために不可欠な欲求を捨ててしまう人さえもいる。
もしも、自分の魂をロボットに移植すれば永遠に生きていられるとしたら?
おそらく、「生き続けたい」と思うならば移植を選択する人は多いに違いない。
その選択が、生物としての死を意味するにも関わらず。
詰まるところ、我々は生物的な「死」が怖いわけではなく、自分の作り出した世界を喪失することが恐ろしいのだ。
生命の目的に逆らうことは悪か?
我々が仮に生命の目的に逆らったからとしても、それ自体が悪とは言えない。
全ての人間を機械に入れ替えたとしても、何かしらの存在から我々に懲罰が下されることもないだろう。
故に、仮に誰かが自殺したとしとも、言い換えればそれは個人の勝手である。
自然界では誰かが特定の役割を担うことによって循環が保たれている。
そして誰かがその役割を放棄しても、空いた穴には必ず代わりの生命が充てられる。
変わりの候補はいくらでもある。これが自然の自己回復作用である。
自然から与えられた役割を放棄した末に待っているものは「自然界からのリストラ」だ。
もしも何らかの不満や鬱憤を晴らすために、己を自死に追い込むことで精神的充足を得ようとしたのならば、その先に待っているのは「自然界からの淘汰」なのだ。
生物は、全ての種が「存在する」という共通の目的を持っている。
生命は存在し続けるために、互いに争い、淘汰し合い、喰い喰われ、生存するという目的に適う者のみを選別してきた。
目的を放棄した生物は、人間を含めて未だ次々と生まれ続けている。しかし、この世界からはすぐに排除されてしまうのだ。
奇妙な結論ではあるが、生物にとっても「生存すること」そのものは、本来生きる目的としては定まっていない。
むしろ、宇宙の法則に「生存すること」を強要されている存在なのである。
生命もまた、宇宙の奴隷に従事することで、はじめて存在することが許されているのだ。
生存に逆らうことが幸福をもたらす保証はない
生きる目的が判らない。死にたくなる。
この感情は、何かを失い湧き上がってきた感情だろうか?
または誰かに隷属させられた結果だろうか?
それとも強い敗北感だろうか?
では、死んだ者はただの敗北者でしかないのだろうか?
生物的な視点から見れば、生き残った勝者もまた生命としての目的に逆らえない奴隷と同じ、即ち敗者である。
生命は宇宙の法則から永遠に逃れることができない、敗北者なのだ。
一見、勝者に見える者は、実は皆等しく敗者なのだ。
しかも、敗北していることに気付いていない。
故に、敗者であるが故に生きる目的を失う必要もないし、また死ねば敗者という訳でもない。
それらは、「人間」という枠組みに囚われているが故に湧き上がってくる感情に過ぎない。
人間社会における「勝者」も「敗者」も、すべからく「人間社会」という枠の内に在る囚人なのだ。
「生きたい」、「死にたい」という情念は、我々が人間であるから、また生命であるが故に生じる感情なのだ。
何かに留まっていたいという想い、執着心がそうさせる。
もしも、生きることが苦痛だと感じるのであれば、人間という歪んだ枠にどっぷり漬かっているが故である。
しかし、死ぬことが苦痛だと感じていても、それもまた同じことである。
湧き上がる衝動。それは、何かに支配されている証拠だ。
そして、支配されていることにさえ気づいていない。
「生か死か」そんな概念に拘るのは、宇宙広しといえども生命くらいなものなのだ。
もしも、あなたに自殺衝動があるならば、今一度問う。
生きることを放棄する。それは自分に本当に幸福をもたらす選択だろうか?
生命を放棄することが自体が悪いことだとは言えない。
しかし、生命を放棄することは果たしてあなたの自由意志による選択なのだろうか?
失った命は戻ってこない。これが宇宙普遍の法則である。
失えば考えることも出来ないだろう。
もしも無知故に選択を誤っていたとしたら、後悔した時には既に手遅れなのだから。