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人間の意思の源泉と所在 魂と意識の話【考察】

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人間の意識や意思、魂というものはどのようにして形作られ、どこから生まれるのでしょうか?

参考例として考えていただければと思います。

 

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生物学的、遺伝学的に考えるならば、まず人間という動物の身体は、体細胞や遺伝子を含めた一個単位の生命を養うために存在していると言えます。

 

生命の源泉は本来一個単位の細胞なのであり、細胞の中に存在している遺伝子であり、生命とはすなわち細胞を含めた遺伝子をいかに生存させるか?という一点に集約されるという考え方です。

 

即ち、我々人間の意思は身体によってコントロールされているに過ぎず、身体とはすなわち体細胞、遺伝子の集合体なのです。

我々が持つ生物学的欲求を始め、五感の認知、様々な欲求は、遺伝子を生存させるために存在しているに過ぎない。個が持ちうる欲求もすべては遺伝子を生かすために存在しているということです。

 

遺伝子を含めた体細胞が正しく機能し、正しい欲求を発露することによって、生命の機能がはじめて維持されます。食料を確保し、身体を養わなければ我々は生きることができません。

そういう意味では、この身体を生かすための三大欲求を持つことは、自分自身を含めた人間社会を維持するためには絶対不可欠の要素であることは明白です。

 

全ては遺伝子を生かすための生存戦略である、という一点のみを考えた時、我々の意識や価値観念は存在価値を失ってしまいそうです。

しかりこれはある面で事実であり、全ては遺伝子の戦略に過ぎない、人生は全て遺伝子が生み出した虚像であると言えるでしょう。

 

意思は何によってコントロールされているか?

我々に確固たる意志が存在している理由は、遺伝子が生存するうえにおいて意識や意思というものが存在していることがメリットになるためです。

しかし、もしも生存上のメリットのみを考えた時、そこにはおかしな点が多数存在することが分かります。

 

我々は、社会的価値観念によって自分の生存にとって邪魔となる敵を殺したり、迫害・弾圧したりします。しかし、その自分を有利たらしめてる価値観によって、同様に自己否定や自己嫌悪を生みだします。そして、時としてそれらの価値観は己を苦しめ、自死にまで追い込むことがあります。

例えそれが正しいものの考え方を持った結果だと仮定しても、このような自殺行為が利己的な遺伝子に許される筈がありません。

自死を決めてしまう理由そのものは種々様々ですが、その価値観の内には自分の身体を第一に尊重し、最も守るべき最優先のものとするような思考はもはやありません。

奇妙なことに、人間は自分の意思によって時として本能的な欲望をも捨て去り、価値観念を尊重するために自傷行為にさえ及びます。

 

基本的に、人間は自分の身体こそが至上であり、最も価値があるものだとは考えてはいないでしょう。

例えば、あなたは自分の身体と精神、どちらが最も大切だと答えますか?

もしもあなたの意思が体細胞によってもたらされており、体細胞の意思によって完全にコントロールされているとしたら、肉体よりも精神を優先することなどあるはずがありません。

そのような反逆的思考をもしも持っていたなら、体細胞によって強制的にその認識を消去されていたことでしょう。

 

我々は時として現実の肉体よりも、心のうちにある精神や価値観、大義の方が大切だと答えます。

精神にとって、肉体とは真の意味で器に過ぎず、己自身ではないのです。

 

身体は精神の傀儡である

身体は、精神性や意思を優先するために常に犠牲を強いられています。

例えば、筋トレに励むだけでも体細胞はどんどん潰れて死んでいきますし、ただ歩いているだけでも接地した踵の皮膚細胞、循環を司る赤血球や歩行に使われる筋肉は常に摩耗し、自死し、消耗しているのです。

細胞個々の意識からしてみれば、これはたまったものではない暴虐でしょう。

それでも彼らは仲間の死に負けずに常に自己増殖して傷を癒し、肉体という器を保つために犠牲となり続けています。

 

体細胞や遺伝子はまさに人間という生命体、そして人間の持つ意識の奴隷なのであり、彼らが自らの意思でこのような現象を起こしているわけではありません。身体に刻まれたルールによって彼らは厳密にコントロールされており、彼らが自ら意思を発揮して行動することは決して許されないのです。

もしも反逆すれば、癌細胞として免疫警察に処分されてしまいます。

 

一方、人間の自ら持つ意思は、自分を傷つけ、殺す権利さえも与えられています。

どちらが主で、どちらが従なのでしょうか?論ずるまでもないような気がします。

 

生命が集合したとき、そこには新たな意志が生まれる。

例えば、集合すると一個体の生物として動き始めるある種のアメーバがいます。彼らは、自ら集合し時としては手足となり、様々な圧力に耐える犠牲者となることによって、この大きな一個体を死ぬまで保つようになります。興味深い現象ですね。

 

細胞のような小単位の存在が集合した時、そこにはまったく別の意思をもった新たな生命が生まれます。そして、その新たに生まれた生命は今までの細胞とは全く別の世界を認識し、意思を持って動き始めるのです。

この意思はいったい、どこから生まれたものでしょうか?

 

もちろん、生命が存在するためには体細胞を最低限養うことが絶対条件です。そのため、体細胞のすべてを自滅に追い込むような欲求を生命体が持つことは許されません。

しかし、その新たに生まれた生命は、自己を健全に保つために時として体細胞に犠牲さえ強いることがあります。

この大きな生命が自己を生存させるためには、今まで個々の体細胞が認識してきた世界とは、まったく異なる新たな次元を生きる生命である必要があります。

 

細胞が生き認識している次元と、一固体の大きな生命が認識している次元には大きな差異があるのです。

細胞にとっては自己生存が大原則ではありますが、大きな存在の意思に従って働き、犠牲にさえなる命令にも従います。また、大きな生命にとっても細胞のひとつひとつよりも、大きな総体としての自分自身を生存させることが第一優先であり、そのためには細胞や身体の生存は基本的に二の次となります。

 

しかし、そんな大きな生命も、社会性を尊重し、法を守るという大原則に縛られており、この奔流に逆らうことは許されません。

社会というひとつの巨大な生命を守るためには、大きな生命である一個人もまた犠牲を強いられることがあるのです。

 

このように、生命とは大きくなればなるほど、そこに新たな生命を生み出し、そこに別次元の意思を持つ別固体をもたらすことになります。

ある意味では、我々は人間という動物の身体に寄生している意識体であるとさえ言えるでしょう。

 

この大きな生命の意思は、体細胞によりもたらされたというよりも、大きな生命が置かれた環境に適応した結果、そのような形にされたと考える方が妥当です。

すなわち、大きな生命の魂の形は最初から大地や宇宙の環境という「遺伝子」によって初めから決定されており、その決定された形を顕現するために人類という生物が媒体として利用された、と言えるかも知れません。

 

すなわち、人間の細胞がヒトの意識を作り出しているのではなく、どちらかと言えば「作らされている」と言った方が正しいのです。

環境という雛形に我々の肉体は嵌められているのみであり、そこには細胞の意思そのものが優先されることがないと言えるでしょう。

我々の意思は体細胞を原料とし、環境という遺伝子によって形が決定し創造されています。

その環境とは、物質そのものでもあり、宇宙からもたらされたモノであるとも考えることができるのです。

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