舎利子 道 自己認識療法のブログ

舎利子 道 健康とスピリチュアル・瞑想のブログ

医学・哲学・スピリチュアルから多次元的に理論構築・健康改善のヒントを発信。

善と悪について4【悪徳を許す善】

f:id:FELICY:20200220103839j:plain

法を破る者には法を破る者の事情があり、その内実は各々の事情により異なります。

しかし、法を破る者の気持ちを同情して汲み取り、彼らがありのままに振る舞うことを許すことは、果たして思いやりのある善行なのでしょうか?

 

同情し、彼らのありのままを許すということは即ち、彼らの在り方を認め、彼らのやり方を肯定し、力を与え、手を貸すことになります。

自分の行いが善となるか、悪となるかは欲の相対速度によって変わります。

自分が彼らに手を貸せば、彼らにとっては自分は善人でしょう。

しかし、その行いを肯定するということは、社会に仇なす者、社会の規範にしてみれば彼らを肯定しているあなたは、悪人です。

 

世の中に絶対的な善悪は存在しません。

極論してしまえば、善悪というのは権力の多寡で決まります。

言ってしまえば、「強者が正義」なのです。そしてその強弱は人から得られる賛同や同意の多寡で決まります。

人間は、たった独りでは何もできません。どんなに強権を振るい独裁国家を牛耳る為政者も、周囲の人々の賛同が無ければ何もできないのです。

 

悪行が為されている場所に自分が居合わせたとします。

その場で自分は手を出さず、何もしていなかったとしても、そこに悪があり、悪が行われていた事実を見過ごし我関せずに看過することは、悪に力を与え、エールを送り、支援することと同義です。

何故なら、そこに居合わせて咎めずに放任するということは、悪人である彼らの肩を持ち、彼らのルール、彼らの法、彼らの悪法に賛同し従っていることと同義だからです。

 

目の前の出来事に知らないふりをしても、その出来事に自分が一切関知せずに済む訳ではありません。

無かったことにできるのは自分の認識の内だけです。その出来事が実際に存在した事実が消えることはありません。

 

 

無関心という責任

現実を無かったことにすることにはできません。

時には、無関心でいるならばその責任を取らされることになります。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

 

子供を怒れない親がいます。

子供が万引きや窃盗、暴行やいじめを行った時、その社会的責任と悪行をしっかりと怒ることが出来ない大人は、親としての社会的責任を正しく果たしていると言えるでしょうか?

恐らく、その親は子供や家族から嫌われることに、日頃から戦々恐々としているに違いありません。もしくは、家庭内での立場が著しく低いのかもしれません。

例え子供が悪いことをしても、全面的に許してあげる、まったく叱らずに笑って許してあげる、責任は全て親が肩代わりしてあげる。

その姿は、今の子供からしてみれば「良い親」でしょう。

しかし、その子供が独り立ちした時、そのような悪癖が身に付いたまま社会に出た時に、本当に社会人として問題なく過ごせるでしょうか?

悪いことは悪いこと。社会に対して悪行を働けば、相応の応酬を受けることを学ばせてあげることが、子供にとっても、社会にとっても本当は有益ではないでしょうか?

社会のルールを肌で知ることが出来ないのは、子供にとっては大きな学習機会の損失です。

 

電車で通勤中、目の前で痴漢が行われています。勇気を出して声を上げることができない女性。しかし、いちいち関わるのも面倒だし、下手に関わるどんなとばっちりを受けるか分かったものじゃない。だからみんな下手に関わらないように無視します。しかし、無視を続けた結果が人権蹂躙を黙認する社会に怨恨を持ち反抗の意を示す、男性排除主義者だとしたら。実際に人権が軽んじられることを容認し、黙認した人々にも相応の責任があります。

結果的に、現状を黙認をした彼らこそが男性排除主義者の台頭に手を貸したとも言えるのです。

 

関わるか、避けるか

しかしながら、トラブルに一切関知しないという選択もまた、自分の身を守るためには必要なこともあります。

 

子供に怒り散らした結果、逆に暴力を受けて大けがをしたり、痴漢を無理に捕まえようとして、ケガを負わされたケースも存在しています。

 

法とは行使される権力の多寡によって決まります。

例え自分自身が正しいと思い指摘したこと、善だと思い行動したことでも、相手との力関係次第では自分の方が悪になります。

多くの人々が自分に賛同してくれなければ、自分の方が悪と見做されてしまっても、全くおかしくはないのです。

 

自分という小さい善はより大きな集団の善にとっては悪ともなり、大きな集団の善は、より大きな社会にとっては悪となるのです。 

 

虐められている子ども、それを見過ごせない人、虐めている学校中の生徒、そしてそれを黙認する教師、このような閉鎖環境でいじめを助長することを許せない社会の人々。

権力はより大きい権力に屈し、権力によって何が善であるかが決まります。

 

 

もしも悪人と一対一で対峙しなければならないような状態であるならば、その場面での善悪は、純粋にどちらが強いかで一方的に決まってしまいます。

自分が悪行を指摘し、それを正そうとするならば、現実的にその行動のリスクを抑えることは身を守るうえで極めて大切です。

故に、自分の身を守り、尚且つ善を貫くならば、周囲の賛同や協力、言質を取って行動を起こすことがいかに大切であるかが解るでしょう。

 

痴漢を指摘するなら、周囲の人たちにも分かるように大声を上げる、子供が恐くて手が付けられないならば、親や教師、相談センターや最悪の場合は警察に相談する。

結局は、「強い者を味方につける」ことが大事なのです。

 

一対一で対峙して正義を貫けるのは、本当にそれに相応しいほどに強いスーパーヒーローだけです。

正義は勝つのです。負けた者は正義ではありません。

正義を振りかざすならば、負ける戦いはしない事です。

自分が負けるならば、それは悪となることを覚えておきましょう。

様々な手段を利用して、勝てる場面を作る。これは勝負のみならず、スポーツや人生で生きる上でも通じるテクニックです。

 

ただし、他者の正義に依存するということは、自分もまたその正義に賛同の意を示すということです。こうして人間社会の歪んだ地位や権力は築かれています。

この点だけは憶えておくと良いかもしれません。

  

 

まとめ

善悪にしろ、目の前の行為に協力する・しないにせよ、目の前の出来事を黙認し、それをありのままに許すということは、その行いに少なからず賛同していることを表します。

悪に賛同することは時としては致し方ないこともあります。その時、自分が生き延び、善行を行うためには、その時点でのその選択が自分にとって善だったというだけの話です。

しかし、その選択の責任は、いずれ自分にも返ってくることだけは憶えておかなければなりません。 

 

善悪は皆の認識が共有されることで初めて実効性を持つものです。

自分一個人だけで作れるものではありません。

 

周囲の人々の善と自分の善が異なる方向にある場合、周囲の人々と真っ向から衝突してしまえば、自分は悪と見做されることは目に見えています。

いかに周囲と衝突せず、自分の持つ善を認知してもらうか?これが、自分の持つ善(ポリシー)を貫きたいならば、必要不可欠な原則です。

 

世界中でも、この原則を前提とした行為は広く行われています。

マスメディアを使った情報操作、印象操作、偽装隠ぺい工作・・・

善や法を誘導し、いかに思い通りにコントロールできる状態に操作することが有益となるかを彼らは知り尽くしているのです。

 

 

karada-kakumei-esaka.site

当ブログの無断複写・複製・転載を禁じます。 Copyright © 2018-2020 KAWAKAMI, Yuta, All Rights Reserve