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善と悪について5【悪人が得をする理由】

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世の中には、悪が蔓延っています。

悪が法の網の目をくぐり、悪人が悪行を行い、善良な市民から金銭を巻き上げ、大儲けしています。

 

人に不利益を生じることをまったく考えずに詐欺まがいの情報商材や効果のない食品を売りつける悪徳商人、警察とつるんで違法取引に手を染めるヤクザの親分、カネの為なら手段を選ばず儲けのみを追求する悪徳医師。

 

社会の規範を考えるならば、悪行を働く者は社会から罰を受けて然るべきです。

悪人を罰し、裁きを下し、悪行を止めさせることで、善良な市民のみの国家を維持することができます。

 

しかし、悪行を行って利益を得ている人々、本当に彼らは「悪」なのでしょうか?

社会から一方的に迫害を受けた結果として、実はその悪徳から得た利得を得ることでようやく彼らが受け取る報酬、人生の帳尻が合っていたとしたらどうでしょう。

 

法を守り、法に従い、社会の秩序を守ることは、安全に暮らすことのできる社会を維持するためには不可避です。

しかし、その秩序を維持するために従うべき規範である法そのものが、矛盾や異常性を孕んでいるがために、世の中に悪行を働かざるを得ない人々を蔓延らせる結果となっているとしたら。

 

法の下の不平等

今の世の中は学歴社会、金銭至上主義の社会です。

高学歴者がトップエリートとなり、官僚や大企業の幹部として抜擢され、自分達に一方的に有利となる様々な規範を創り上げ、理論の正当性を主張して一般市民から一方的に金銭を略奪するという構図が少なからずあります。

 

官僚や政治家は合法的に自分たちにとって有利な法案を可決し、法に触れない範囲で法さえも操作し、自分達だけにとって一方的に有利な制度を作り出し、権力を一極集中させようとします。

彼らの頭の中には国を守り、繁栄を維持するという目的意識は薄く、自分達の利益や保身の事しか頭にないとしたら。

例え合法であろうが、皆からの賛同を得ていようが、その歪な権力社会を作り出した結果として、搾取される側に回らざるを得ない人々が当然生み出されます。

彼らは罪を犯したわけでないにも関わらず、一方的に社会的・経済的に不利益を被る立場に置かれ、労働力や生命を一方的に搾取されるのです。

 

このような歪な社会があるとしたらどうでしょう。

搾取される人々が律儀に法を守る云われはありませんし、むしろ、法を破って利益を得ることで初めて本来生きる為に必要な報酬がもたらされることになります。

  • 雇用保険の負担が増大した結果、働く場所を奪われてしまった人
  • 空気が読めないという理由だけで就職先が見つからない人
  • 発達障害を持っているという理由で障害者というレッテルを貼られ、病院に拘束されてまともに暮らすことすらできない人
  • 日夜真面目に働いているにも関わらず、努力がまったく認められずまともに暮らせる給料も得られない人
  • 年齢が高いという理由だけで辞職に追い込まれ、食べていく日銭すらろくに稼げない境遇に追い込まれた人
  • 犯罪まがいの行為を続ける社長に物申しただけで、業界から追放されてしまい、再就職先を見つけることさえ出来なくなった人

 

どんな人でも、命に関わるほど追い詰められてしまうと、法を遵守することや犯罪行為を避けることは二の次になります。

例え、法に則り、法的に正当だと見做される行為だとしても、それを利用して他人を蹴落とし、他人を利用し、欺き、搾取しようとする人間はたくさんいます。

そんな彼らが法を管理し、法を守っているから正当だといくら主張したところで、実際に彼らが一方的に弱者を虐げ、搾取しているという事実は違いありません。

 

そんな弱者が彼らに対抗し、命を守り食い繋いでいくためには、法に反した行為に走らなければならないことも当然あるでしょう。

そんな彼らが悪行を働き、悪行によって得をしたとしても、実際にはそれでようやく彼らの今までの行いが報われ、帳尻が取れた結果である可能性があります。

 

善行や、法に則った仕事を全うした結果として得られた報酬は正当なものです。誰も咎めることはありません。

しかし、法に則って得た利益だとしても、それは本当に正当な報酬であるかどうかは全く別な話です。

法さえ守っていれば他者を一方的に搾取しても構わないのでしょうか?

 

現在、日本国内で問題となっている、派遣会社による労働者の一方的な搾取、名ばかり中間管理職や不法就役の実態、合法的に行われる国民資産の売却、行方の分からない金融資産・・・

 

歪な富の偏りは、結果的に歪な人間をたくさん作り出すのです。

正当性を盾に不法を働けば、不法行為に手を染めざるを得ない人間をたくさん産み出します。

これもまた鏡の法則であり、引き寄せの法則であり、責任転嫁の結果なのであり、自分達の行動に責任を取ってこなかった結果、因果応報だと言えるでしょう。

 

社会的に必要な悪行を悪人に押し付けたとしても、それはただの錯覚に過ぎません。その悪の片棒は自分もまた担いでいるのです。

 

悪を働く権力者は姑息なものです。

悪事は人に押し付け、自分は出来る限り責任を回避し、安寧を貪るために尽力します。

何か問題が起こったときには、他人にその責任を擦り付け、トカゲの尻尾切りで凌ぎます。

自分は高みからその他人を民衆と共に非難するのです。 

 

 

しかし、実のところ、あなたも、全く同じことをやっていないでしょうか?

 

自分よりも身分の低い人間を見下す人がいます。

裕福な大富豪の家系の人が、毎日やってくるゴミ清掃車の人々を、学のない汚い人間だと内心、見下していました。

しかし、彼らの働きがなければ自分たちの生活は当然、成り立ちません。彼らの働きによって、学者の家系の人は生かされているのです。もしも自分が独りの力で生きるならば、ごみの管理やゴミ捨ては自力でやらなければならない仕事です。

彼らの仕事を低俗なものと罵り、なおかつ彼らの仕事により一方的に益のみを得るということは、まさにその悪の片棒を担いでいるに等しい行為です。

 

ヒヨコを屠殺する養鶏業者がいます。生まれたばかりのヒヨコをたくさん殺すことは悪でしょうか?

あなたは、スーパーに並ぶ卵を買いますか?安いほど嬉しい、買いたくなるのではないでしょうか?

かつて卵は、一個500円もする高級食材でした。現在、卵があれだけの破格で売られているのは、生産効率を最大限に突き詰め、不要なヒヨコを即座に処分することによって得られています。

彼らの仕事を悪辣であると一方的に非難し、彼らの仕事の利益だけを享受しようとする行為は咎められることのない善でしょうか?

 

自分が悪と決めつけ、咎めているにも関わらず、その悪行に依存して生きてる人は、明らかにその悪行の片棒を担いでいます。

 

実のところ、彼らの無慈悲な悪行は「悪」ではなく、あなた達を活かすための汚れ仕事、「善行」だったのです。

 

もしも自分の生活が他人の悪行によって支えられているならば、その彼らを攻める謂れはありません。

自分が生きるために必要な悪の側面を他人に擦り付け、責任転嫁しているに過ぎないのです。

 

このようにして、解釈や理解によって現在の立場や善悪は入れ替わります。

 

警察は悪を抑制し、犯罪者を抑圧し治安を守ることが仕事ですが、そんな彼らの仕事は犯罪者の存在によって支えられています。

犯罪者がいなくなれば彼らの仕事は無くなり、警察全員が路頭に迷ってしまうでしょう。奇妙なことですが、彼らの存在は犯罪者によって支えられているのです。

 

本当に社会に対して一方的に悪行を働いている者は、相応の応酬、罰則を科せられます。

やくざの親分が罰を受けることがないのは、彼らの行いを賛同する者が多いためです。社会的に「悪」というレッテルを貼られ、迫害された人々の受け皿となっているためです。

 

 

もしも、一人で勝手に大量殺人を行うような間抜けがいたならば、逮捕され、相応の刑罰に処されます。彼らにも彼らなりの犯行理由、独善があったかもしれませんが。

 

 

★おまけ★ ただの善人に魅力がない理由

ただの善人は、権力に屈して弱者でいることを代償に安全を買っている人です。

すなわち、自分だけが安全な場所に身を置き、安全を貪り、ノーリスクで悪を一方的に非難しようとしている偽善者です。

そんな人間に、他者を惹きつける魅力があるはずがありません。

 

しかし、その卑怯さが生きるためには最も正しい選択であることもあるでしょう。

非難することはできません。

 

善人という立場を買うことにも相応の対価、リスクがあるということです。

善と悪について4【悪徳を許す善】

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法を破る者には法を破る者の事情があり、その内実は各々の事情により異なります。

しかし、法を破る者の気持ちを同情して汲み取り、彼らがありのままに振る舞うことを許すことは、果たして思いやりのある善行なのでしょうか?

 

同情し、彼らのありのままを許すということは即ち、彼らの在り方を認め、彼らのやり方を肯定し、力を与え、手を貸すことになります。

自分の行いが善となるか、悪となるかは欲の相対速度によって変わります。

自分が彼らに手を貸せば、彼らにとっては自分は善人でしょう。

しかし、その行いを肯定するということは、社会に仇なす者、社会の規範にしてみれば彼らを肯定しているあなたは、悪人です。

 

世の中に絶対的な善悪は存在しません。

極論してしまえば、善悪というのは権力の多寡で決まります。

言ってしまえば、「強者が正義」なのです。そしてその強弱は人から得られる賛同や同意の多寡で決まります。

人間は、たった独りでは何もできません。どんなに強権を振るい独裁国家を牛耳る為政者も、周囲の人々の賛同が無ければ何もできないのです。

 

悪行が為されている場所に自分が居合わせたとします。

その場で自分は手を出さず、何もしていなかったとしても、そこに悪があり、悪が行われていた事実を見過ごし我関せずに看過することは、悪に力を与え、エールを送り、支援することと同義です。

何故なら、そこに居合わせて咎めずに放任するということは、悪人である彼らの肩を持ち、彼らのルール、彼らの法、彼らの悪法に賛同し従っていることと同義だからです。

 

目の前の出来事に知らないふりをしても、その出来事に自分が一切関知せずに済む訳ではありません。

無かったことにできるのは自分の認識の内だけです。その出来事が実際に存在した事実が消えることはありません。

 

 

無関心という責任

現実を無かったことにすることにはできません。

時には、無関心でいるならばその責任を取らされることになります。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

 

子供を怒れない親がいます。

子供が万引きや窃盗、暴行やいじめを行った時、その社会的責任と悪行をしっかりと怒ることが出来ない大人は、親としての社会的責任を正しく果たしていると言えるでしょうか?

恐らく、その親は子供や家族から嫌われることに、日頃から戦々恐々としているに違いありません。もしくは、家庭内での立場が著しく低いのかもしれません。

例え子供が悪いことをしても、全面的に許してあげる、まったく叱らずに笑って許してあげる、責任は全て親が肩代わりしてあげる。

その姿は、今の子供からしてみれば「良い親」でしょう。

しかし、その子供が独り立ちした時、そのような悪癖が身に付いたまま社会に出た時に、本当に社会人として問題なく過ごせるでしょうか?

悪いことは悪いこと。社会に対して悪行を働けば、相応の応酬を受けることを学ばせてあげることが、子供にとっても、社会にとっても本当は有益ではないでしょうか?

社会のルールを肌で知ることが出来ないのは、子供にとっては大きな学習機会の損失です。

 

電車で通勤中、目の前で痴漢が行われています。勇気を出して声を上げることができない女性。しかし、いちいち関わるのも面倒だし、下手に関わるどんなとばっちりを受けるか分かったものじゃない。だからみんな下手に関わらないように無視します。しかし、無視を続けた結果が人権蹂躙を黙認する社会に怨恨を持ち反抗の意を示す、男性排除主義者だとしたら。実際に人権が軽んじられることを容認し、黙認した人々にも相応の責任があります。

結果的に、現状を黙認をした彼らこそが男性排除主義者の台頭に手を貸したとも言えるのです。

 

関わるか、避けるか

しかしながら、トラブルに一切関知しないという選択もまた、自分の身を守るためには必要なこともあります。

 

子供に怒り散らした結果、逆に暴力を受けて大けがをしたり、痴漢を無理に捕まえようとして、ケガを負わされたケースも存在しています。

 

法とは行使される権力の多寡によって決まります。

例え自分自身が正しいと思い指摘したこと、善だと思い行動したことでも、相手との力関係次第では自分の方が悪になります。

多くの人々が自分に賛同してくれなければ、自分の方が悪と見做されてしまっても、全くおかしくはないのです。

 

自分という小さい善はより大きな集団の善にとっては悪ともなり、大きな集団の善は、より大きな社会にとっては悪となるのです。 

 

虐められている子ども、それを見過ごせない人、虐めている学校中の生徒、そしてそれを黙認する教師、このような閉鎖環境でいじめを助長することを許せない社会の人々。

権力はより大きい権力に屈し、権力によって何が善であるかが決まります。

 

 

もしも悪人と一対一で対峙しなければならないような状態であるならば、その場面での善悪は、純粋にどちらが強いかで一方的に決まってしまいます。

自分が悪行を指摘し、それを正そうとするならば、現実的にその行動のリスクを抑えることは身を守るうえで極めて大切です。

故に、自分の身を守り、尚且つ善を貫くならば、周囲の賛同や協力、言質を取って行動を起こすことがいかに大切であるかが解るでしょう。

 

痴漢を指摘するなら、周囲の人たちにも分かるように大声を上げる、子供が恐くて手が付けられないならば、親や教師、相談センターや最悪の場合は警察に相談する。

結局は、「強い者を味方につける」ことが大事なのです。

 

一対一で対峙して正義を貫けるのは、本当にそれに相応しいほどに強いスーパーヒーローだけです。

正義は勝つのです。負けた者は正義ではありません。

正義を振りかざすならば、負ける戦いはしない事です。

自分が負けるならば、それは悪となることを覚えておきましょう。

様々な手段を利用して、勝てる場面を作る。これは勝負のみならず、スポーツや人生で生きる上でも通じるテクニックです。

 

ただし、他者の正義に依存するということは、自分もまたその正義に賛同の意を示すということです。こうして人間社会の歪んだ地位や権力は築かれています。

この点だけは憶えておくと良いかもしれません。

  

 

まとめ

善悪にしろ、目の前の行為に協力する・しないにせよ、目の前の出来事を黙認し、それをありのままに許すということは、その行いに少なからず賛同していることを表します。

悪に賛同することは時としては致し方ないこともあります。その時、自分が生き延び、善行を行うためには、その時点でのその選択が自分にとって善だったというだけの話です。

しかし、その選択の責任は、いずれ自分にも返ってくることだけは憶えておかなければなりません。 

 

善悪は皆の認識が共有されることで初めて実効性を持つものです。

自分一個人だけで作れるものではありません。

 

周囲の人々の善と自分の善が異なる方向にある場合、周囲の人々と真っ向から衝突してしまえば、自分は悪と見做されることは目に見えています。

いかに周囲と衝突せず、自分の持つ善を認知してもらうか?これが、自分の持つ善(ポリシー)を貫きたいならば、必要不可欠な原則です。

 

世界中でも、この原則を前提とした行為は広く行われています。

マスメディアを使った情報操作、印象操作、偽装隠ぺい工作・・・

善や法を誘導し、いかに思い通りにコントロールできる状態に操作することが有益となるかを彼らは知り尽くしているのです。

 

 

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善と悪について3【法と脱法】

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我々は法を守り、法を維持することで互いを尊重し、利己利他により、社会的幸福を得られる社会を実現しようとします。

 

善と悪は本来存在しないものです。しかし、何らかの目的意識、方向性を達成しようとした時、そこに目的を遂げるために必要なもの、そしてそれを阻害するものという善悪の基準が出来上がります。

 

法を守り、法を行使するのは、ひとえに個人の最大の幸福、また社会の最大の幸福を追求するからにほかなりません。

しかし、自分と他人が存在し生きる限り、互いに比較し、利害によって対立し合い、損得を勘定してしまうことは避けられません。

故に、ある一個人の欲を我慢させることで、公益を図ることは、少なからず避けられないことです。

互いに利益を尊重し合い、必要以上に相手を害さずに互いに幸福を享受する。

法とは自他共存共栄のためには欠かせないものです。

 

共存共栄により平和と幸福を実現するために創られたものこそが法であり、それを維持することが法の役割です。

しかし、法とは法が作られた時点で最も益となるであろう妥当点、これさえ守っていれば間違いないであろうと思われる現時点のルールを明文化したものです。

故に、明文化されたルールが時代を経ても、現在でも同じ解釈で自他の最大限の幸福を追求することができるとは限りません。

 

自然界、社会というものは、生き物のように常に動き変化しています。

過去に創られた法を正しいと信じ込み、ただ愚直に守り続けることが本当に自他の幸福につながるとは限りません。

未来永劫絶対的に正しいルールなど存在しないのです。

 

 

人に法を強要することは善か悪か?

もしも自分が法を守り、法によって守られているならば、法を守ることは正しい選択です。 

 

しかし、もしも人が法が存在することによって苦しめられていたとしたら、人に法を守らせることは正しい選択でしょうか? 

法は秩序を守るために創られたものですが、その創られた秩序の形が常に正しいとは限りません。

 

例えば、インドには古来よりカースト制度と呼ばれる身分制度が根強く残っています。

日本でも、かつて士農工商身分制度が存在していました。現在は学歴や能力によって社会的にランク付けが為されていますが、こちらも身分制度と似た役割を果たしています。

 

身分制度そのものが絶対に間違っているとは言い切れません。人が社会において各々の役割を果たすことで、ようやく社会全体が健全な営みを維持することが出来るのですから。

もしも身分制度が存在せず秩序が保たれない社会であれば、各々が欲望のままに他人を襲い、物を盗み暴力を働く社会が正当化されます。そのため、各々が役割を担い、社会的な役目を果たし、秩序の破壊や混乱を防ぐために、身分制度という法」が必要な時代がありました。

 

国の年貢や福祉を正しく維持管理する役割を担っているのが、支配階級である武士です。

それが、ただ単に支配者である武士が気に入らないという理由だけで農民らが蜂起し、一方的に武士を追い出してしまうとどうなるでしょう?

農民は年貢の管理方法や活用法、また外敵から身を守るための術をまったく身に着けていません。欲しいままに今手元にある年貢を食べきってしまい、しまいにはみんな飢え死にしてしまうかもしれません。今までは年貢の管理を武士を担ってもらっていたのですから。

結果的に、他国の侵攻を容易に許してしまい、彼らは敗北し、奴隷として使役させられる羽目になります。

実際に、ジンバブエという国は支配者を一方的に弾圧し追放した結果、最極貧国になってしまいました。彼らには制度を維持管理する大切さ、守ることの必要性、働くこと意義が理解できなかったのです。

 

しかし、もしも支配階級たる武士が、年貢を無駄遣いし贅を尽くし、農民を疲弊させ、しかも他国の侵略に対して対峙することをせずに逃げ回るような真似をしていたら。

ただその支配階級に居座っているだけで、怠惰を貪り続けるだけでまったく何もせずいたら。

役目を果たさない支配者は民にとって害でしかありません。農民たちにとっては、そのような支配者は武士の座から退いてもらった方が賢明です。

 

法とは、言ってしまえばこの武士のようなものです。役割を果たす分には我々の秩序を守りますが、不要な束縛や強制は不徳を生んでしまいます。

 

法を守らない人を咎めることは善か悪か?

人には生まれ持った立場、与えられた役割があります。

与えられた役割を果たすことができるか否か。

または、その与えられた役割を担うことが本人にとって幸福となるか?

その状況次第で、本人が守るべき法や従うべき者は変わります。

 

自分が一般市民として働き、役割を果たし、その働いた分の対価や役割を果たした分の報酬を社会から享受することができるならば、自分にとっては法を守り、秩序を保つことは正しい行いでしょう。

 

しかし、もしも自分がしっかりと働き、役割を果たしているにも関わらず、対価がまったく支払われず、なおかつ社会から迫害されるような立場であるとしたら?

自分にとってそんな法を守る意義は全くありませんし、秩序に盲目的に従っているだけではまともに生きていくことさえできません。

 

生まれついて地域の立派なお寺様の住職の息子は、その地位を継ぎ、先祖から頂いた方を富と仕事を継承し、守り維持することが正義です。

 

しかし、 幕末の乱世の時代に徳川家に生まれ育った者、または倒幕と攘夷を目指す薩長武士の跡取りとして生まれた息子は、ただ既存の法を守り維持していれば良いという訳にはいきません。彼らは混乱の世を開拓し、新時代を築くという責務があります。国や民の希望を背負う彼らは、ただ安穏と平和を貪って暮らすような真似は許されません。

 

ただ秩序を守るだけで安楽に暮らすことのできる人は、安楽に過ごせば良いのです。

しかし、混乱の渦中にあり、他者からの支援も受けられず法に従うことが自殺行為に等しい佳境にいるならば、現在の歪んだ法に反旗を翻し、世を改革するために尽力することが結果的に自他の安楽につながります。

 

法を守ることが善か悪か?それが益をもたらすか損をもたらすかは、欲の相対速度によって変わります。

法に反旗を翻す人は、先祖から受け継がれた家系をただ守ろうとしているだけかもしれません。

逆に、法を守ろうと尽力している者は、ただ単に自分の権力に執着しているだけであることもあります。

 

もしも相手の動機や事情をまったく鑑みずに、ただ法を守らないから悪だと決めつける行為は、果たして知恵のある行いと言えるでしょうか?

愚者を咎めることは決して悪ではありません。社会の秩序を保つためには、愚かな行いを咎めるのもまた必要な行いです。

しかし、法を破る者には、法を破る者の理があります。その動機は、各々の事情によって違います。

思考停止して、ただルールを破る者を悪だと決めつけ責め咎める行為は、視野が広い者の行いとは言えません。自分の益にはなるかもしれませんけどね。

 

法を破る者は現在の法の下では悪です。

しかし、その善悪も時と場所によっては反転し、入れ替わるのです。

因果を理解するためには、善悪の垣根を取り払い、その出来事の起承転結を理解しなければなりません。

 

自分が法を守って幸福になれたからと言って、他人もまた同じ立場にあるとは限らないのです。

 

法を守る人は偉いのだろうか?

  • 坂本龍馬は既存の歪んだ幕府と法を打ち倒し、外国に負けない強い国を作ることを夢見て邁進しました。
  • 200年以上の栄華と平安を築いた江戸時代は、徳川将軍の豊臣家に対する裏切りにも等しい行いによって築かれました。
  • アメリカ合衆国はイギリスの一方的な支配統治に反旗を翻して独立、誕生した誇り高い国です。
  • 仏陀カースト制度や歪な既存宗教に疑問を抱き、正しい理論に基づいた「法」を世に残すために生涯をかけて活動しました。

これらの偉人たちはみな、既存の法を破ることで新しい秩序を作ることに尽力し、大役を果たした人々です。

 

彼らの蛮勇と旧体制の破壊・改革があったからこそ、現代の社会体制が作られる礎となりました。

彼らは、法を冒した愚か者なのでしょうか?

彼らのような行動を起こさず、ただ法を冒すまいと何もせずにひたすらに安楽に生きることが果たして賢者なのでしょうか?

苦難にあえいでいる人々を見過ごし、ただ既存の法を守ることだけが正義なのでしょうか?

 

インディオアステカ帝国は、先祖から賜った言い伝え、法を頑なに守り、異人を歓迎し妄信してしまったために、彼らによって侵略・略奪を受けて滅ぼされてしまいました。

みだりに法を守ることは、時としてはたくさんの犠牲を生むのです。

 

 

法の持つ権力

法を守り、法に従い法を重んじることは、法自身に権力、強制権を与えることと等しい行為です。

法とはそのルールが決定されるだけでなく、それを順守しようとする人々の意思がなければ効力を持ちません。

 

もしも新しい法律が施行されても、誰もその存在を知らない、誰一人として守る気がまったくなければ、その法が誰かに破られても誰も咎めることはありません。法を冒したとしても、罪の意識を持つこともまたないでしょう。

 

法を知り、法に従うことは、その法に力を与えることになります。

強大な権力者がいる。その権力者が法を定めている。そして、その権力者に自分が付き従うことで、その権力者は自分が譲り渡した分だけ、ますます強い権力を得るのです。

権力者は、自分独りでは何もできません。権力は、周囲の人々が権力者を必要とし、その権力者に自分自身の意思決定権を譲り渡しているからこそ、もたらされるものです。

自身の持つ権力を譲り渡した人々の力。それがひとりの権力者に集中することで、強い権力、法を施行し、実行する強制権を得ているわけですね。

権力は、周囲の人々の利得を基準として成り立っています。

 

すなわち、法とは現時点の権力そのものであるため、決してそれが正しいとは限りません。沢山の人々の賛同を得ているほどにそれは正しいと感じられるかもしれませんが、例えば衆愚政治などと呼ばれるように、その決定が愚かしいこともまた在るのです。

絶対に負けると知りながらも戦争を継続していた、かつての日本軍のように。

 

 

法を守ることは本当に恩恵につながるだろうか?

法とは、今現段階で正しいだろうという予測を元に作り出されたルールです。

それが意図した通りの力を持つ事もあれば、当然ながら予想外の抜け穴や不利益をもたらすことがあります。

すなわち、法に求められるルールもまた、時代とともに変化していくのです。

もしも法を元に繁栄や平安を築きたいという意思があるならば、その意思こそが最も尊重されるべきなのであり、ルールそのものは時代の流れに合わせて変えていかなければなりません。

 

自身が法を守ることは社会的信頼を得るためには大切なことです。

しかし、だからと言って法を破る者を心のうちに無下に責め立てる感情を持っているならば、それは自分自身の心の平安を脅かすことになりかねません。

法の下に共存共栄する社会においては、ルールを破る事は悪いことです。

しかしだからと言って、ルールを破った者が根っからの悪人とは限りません。

ルールを破る者には、破る者なりの事情があるのですから。

 

特に、法律でも戒律でもないにも関わらず、自分が勝手に作り出している「マイルール」には要注意です。

自分で勝手にマナーだと勘違いしている所作、挨拶をしない人間は無礼者、即ち悪人だなど、皆が共通認識として持っていないマイルールは、誰の賛同も得ていないがゆえに、強制力も、権力もありません

そんな歪んだ認識に基づいたマイルールで人間を白黒付けて判断していると、本来素晴らしい知恵や才能を与えてくれる人を無碍にすることになってしまいます。

礼儀正しいことは素晴らしいことですが、だからと言って礼儀を知らない他者を責めて良い理由にはならないということですね。

 

ルールを守る者、破る者。どこまでを受け容れる自分次第です。法とはまた無関係に、自分にとって不利益になる人、馬の合わない人というものまた存在するのですから。

自分の心のキャパシティ、限界を認めるというのもまた大切なことです。

それを踏まえたうえで、少しでも広い心を身に付けられると良いですね。

人生をよりよく豊かに生きるために。

 

 

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善と悪について2【自己と概念】

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さて、善と悪というものは、本来存在しないことを前項にて解説いたしましたが、そもそも何故善悪の理解を得ることが大切なのか?と言えば、そこには人生の苦を解決するヒントが隠されているからです。

 

極論ですが、人間の抱える苦しみというのは、全て自己都合、エゴによって発生しています。

人間の苦しみというものは、得てして自分の身に降りかかった災難によって起こります。

 

苦痛の原因は、人間関係がうまく行かない、人から認めてもらえない、お金に余裕がない、経済的な困窮、仕事ができず能力が低い、など実に様々です。

しかし、苦痛の発生をより根本から考えるならば、それは生きる者であればいずれ避けて通ることができない、生老病死(生まれることも含め、老いること、病に倒れること、死ぬこと)によって起こります。

 

我々は生きるために、この身体の健康を保つ必要があります。そのために、生来より肉体(代謝)、そして周囲の環境(認識)、精神状態(認知)を健全に保とうとする意志を持っています。

その意思を脅かすもの、いずれ命に関わるかもしれない危機に対して我々は恐れを抱きます。

 

身体に起こるケガや痛み、空腹や疲労に苦しむのは、身体が壊されることで命の危機に陥ることを防ぐためです。

もしも痛みを感じなければ、ケガや病気に対して何の手も打てず、いずれ死んでしまうでしょう。事故に遭ったり、野生の動物に襲われても何も感じないかもしれません。

そのような状態下では、自分の身に降りかかる様々な危機に対して正しい行動を取る事が出来ません。

苦痛をもたらす危機を進んで避けることが出来なければ、生きることそのものが難しくなり、自然界から淘汰されることになります。

 

また、周囲の環境の変化を敏感に察知することも、生きるためにはとても大切な能力です。自分が苦労して耕している畑が、もしも動物に荒らされてしまったらどうなるでしょう?食べ物が充分に得られずに飢えて死んでしまうかもしれません。

また、台風や洪水が起こって家が流されてしまったらどうなるでしょう?住む場所を失い、家族皆が路頭に迷ってしまいます。もしも台風が来る予兆があれば、事前に察知して対策を考えなければなりません。

自分の管理する田畑、それに近づいてくる者、壊す者、また共に協力している家族などの状態、すなわち自分を守ってくれる環境の状態を把握することはとても大切です。

もしも環境の変化を察知し、そこに問題(苦)を認識することができなければ、環境の変化に対して我々は適切な行動は取れないでしょう。

 

精神(記憶)もまた、危機に対して適切な行動を取るためには極めて大切な要素です。

いつもオオカミが家族を狙って襲ってくる。子供が狙われる。そのような環境であれば、オオカミはとても危険な動物であることを覚えていなければなりません。

オオカミに恐怖を抱くことができるからこそ、オオカミを追い払ったり、オオカミから家族を守ろうとする感情が湧いてくるのです。

恐怖の記憶、そして恐れや怒りを持つことは、過酷な自然を乗り越えて生き延びるためにはとても大切な力です。

 

生命にとっては、命を維持するものは善、命を絶つものは悪です。

人間は生きる為に心地よいと感じるもの、そして苦痛だと感じるものを産まれた時から持っています。

苦は、命の危機を避けるために不可欠な衝動です。それは人間が生まれ、生き延びるためには絶対不可欠な感覚であるがために、我々に生来より備わっているのです。

 

 

何に苦痛を感じるか?

我々の苦痛は、全て身体の破壊を防ぐために、生命を守るために存在する感情です。

空腹、痛み、疲労、不快感・・・これらの感情は全て不快なものですが、これらの感覚を正しく不快だと感じることが出来なければ、命を保つことはできなくなってしまいます。

 

しかし実際には、人間の苦痛には様々なものがあります。

友人と喧嘩をしてしまった。人を傷つけてしまった。酷い仕打ちを受けた。お金が足りなくて困った。元気が出ない。容姿が醜い。成績が上がらない。仕事で大失敗をしてしまった。欲しいものが手に入らない。

根源的な話をするならば、これらの苦痛は、すべて自分自身の生命を維持したい、という欲によって湧いてくるものです。

もしも、自分の生命を守ることを大切に感じないならば、これらの事象から苦痛が発生することも、またないことでしょう。

 

  • 友人と喧嘩をすることを恐れるのは、友人から避けられることで自分の社会的評価が下がるため、もしくは自分の生きる環境が心地よいものではなくなるためです。敵が増えることは、様々な点から生きる上で不利になるでしょう。
  • 人を傷つけてしまうことを恐れるのは、罪を犯した結果として、自分が周囲からひどい扱いを受けることを恐れるためです。
  • 酷い仕打ちを受けることを恐れるのもまた、立場を軽んじられる、尊重してもらえないことで他者からの支援を得られなくなる一方、「攻撃しても良い対象」と見做されることを恐れるためです。
  • お金が足りなければ、当然生きる為に必要なものが手に入りません。
  • 容姿が醜いことを恐れるのは、他者から軽んじられることで、社会的に不利な立場を強いられるためです。
  • 成績が上がらない。仕事で大失敗をしてしまったなど、能力的な問題で恐れるのも、自分が生きる為に必要なものが手に入らなくなる恐れがあるためですね。

 

このように書くと、すべての恐怖や苦痛は自分の身勝手な都合から起こっている感情であると感じるかもしれません。

しかし、他者の抱える苦を理解できるのは、ひとえに自分もまた同じ苦痛を感じることができるためです。

自分にとって苦しいから、他者にとってもまた苦しいことだと慮ることができるのです。

 

  「苦」と「恐怖」という言葉を使いましたが、これらの文面から、恐怖とは、苦を受けることを予期するために発生する感情であることが分かりますね。

「苦を避けたいと思う心が恐怖を作るのです。」

実際に身体が味わう苦痛、そして心が味わう記憶・恐怖から作られる苦痛。

我々は、これらを感じることを恐れ、苦しみ生きているのです。

もしも生命が完全にかつ健全に守られ、そして恐怖を感じることがなければ、我々はおそらく苦痛を感じることはないでしょう。

 

苦をなくすために在るべきもの

我々の感じる苦しみ、それは生命を維持するために感じているものです。

すなわち、我々が生きるために必要な精神、肉体、そして環境を維持するために必要なものが失われる、維持できなくなる、手に入れることが出来なくなったその時に苦痛は生じます

自分が欲しいもの、在るべきものだと思っているモノが手に入らない時、そこに苦痛を生じるのです。

 

より健全な生命を維持するためには、自分にとって必要なものや経験を取捨選択し、選び取って得続けることが極めて大切です。

もしも食べ物が得られなくなれば我々は飢えてしまいますし、食べ物を得るために必要な道具や知識、経験は常にアップデートし続けなければなりません。

これらを得る手段が潰えたり、もしくは得ることに対する欲求が失われたとき、それは転じて生命の危機となります。

「あるべき姿」(アイデンティティ)を持つことは、命を保ち、繋ぐうえで必要不可欠です。「DNA」のように。

生命を保つことは生き物にとっては絶対必須要素であり、生きるうえでは絶対に覆せない欲求です。

「あるべき姿」こそが、我々にとっては生命そのものなのです。

ゆえに、「命を保つ欲を持つために、あらゆる手段を尽くす欲を持つ」ために、人間は苦痛を経験することになります。

 

在るべきもの…

  • 自分はエリートなのだから、周りの能無しよりも高給をもらって当然だ!
  • 俺は強いんだ!だから、弱者を攻撃して虐げる権利がある!
  • 私は偉い人間だ。だから周囲の人間からもっと尊敬され、敬われるべきだ!
  • 私はとても良い人です。正直者で悪意がない。とっても善い人。そんな私を周囲の人たちはもっと尊重すべきです。
  • 自分は生かされているだけで有難い。だからもっと自分を壊してでも努力すべきだ。
  • 妻は夫の私にもっと尽くして然るべきだ!
  • 人間は皆、もっと賢くなければならない。
  • 悪いことをする奴が許せない!神に裁かれて然るべきだ! 

 

苦は現実とイメージとの乖離により生じる

「自分が理想形とする生命」を保つための欲、そしてそれを得るために努めなければならない現実。

これらの間のギャップ、差異が大きいほど、人間の苦痛は肥大化します。

 

のどが渇いた。水道の蛇口を捻り、水を飲む。

のどが渇くことは苦痛です。水道の蛇口を捻ることもまた苦痛です。水を飲むことも苦痛ですが、乾いたのどを潤すためには、これら一連の所作を経なければなりません。

これらは全て、理想と現実との間にギャップがあるために生じる苦痛です。

  • のどが潤う ⇔ のどが渇いている
  • 動く必要のない身体 ⇔ 水道の蛇口を捻るために身体を動かす
  • 水を飲む必要がない ⇔ 水を飲む必要がある

理想形の状態からの「変化」。人間は、「恒常性(一定の変わらない状態)が変化することに対して苦痛を感じる」のです。

恒常性を維持する。これが生命が維持されるために必要な大原則なのです。

 

しかし、水道の蛇口を捻りさえすれば水が出てくるのですから、これらの所作は苦痛であったとしても、たいした苦痛ではないでしょう。

 

しかし、もしも実現が極めて難しい欲を持っていたとしたら、その苦痛はより激しいものとなります。

有名大企業の社長に俺はなる!

社長になるための勉強をする。エリート街道を歩み超一流大学を卒業する。ライバルを皆蹴落とし、一番で卒業し、大企業に就職する。大企業で目覚ましい成果を挙げ、大企業で最年少で昇進し、一躍幹部候補に躍り出る。

考えるだけでも頭が痛くなりそうですが、それでも自分が稀代の天才で文武両道、良家の嫡男でコネクションも完璧なら、意外と難しくはないかもしれません。

しかし、能力が平凡なただの一般人だとしたら、これらを実現することは茨の道でしょう。平凡な人がこのような道を歩もうとするなら、その苦痛は想像を絶するものになるに違いありません。

 

このように、人生において解決することが困難な苦痛は、実現困難な理想を掲げ、それに奮闘することで起こります。

しかし、そもそも生きることさえも困難な境遇であるならば、不幸なことですが生きようとする限り強い苦痛に苛まれ続けることになるでしょう。

 

苦を除くために必要なもの 【視野の拡大】

日頃から何を必要と感じ、何を得ることを欲し、何を保つことを是としているでしょう?

 

自分が対象を認識し、そしてそれらを「自分の一部だと解釈した時」、そこに苦痛は生まれます。

 

  • 学歴はあなた自身でしょうか?
  • 身分や地位はあなたそのものですか?
  • 恋人、家族はあなたのものですか?
  • 能力はどうでしょう?才能や権威は?
  • お金はあなたの存在そのものですか?
  • あなたの身体は?身体は、あなたの思い通りになりますか?

 

人間は多かれ少なかれ、必ず欲を持って生きています。それが例え身体を維持することに直接関係がなかったとしても、そこに「欲する」という動機を持てば、苦を生ずる源泉になります

欲するものは、それが実在性のあるものか、抽象的なものであるかは一切関係がありません。

我々人間は、極論してしまえば概念を欲し、概念を食べて生きているのですから。

 

物質と概念、この両者の方向性が一致し、生命を維持するための必要条件を満たしさえすれば、我々の生命は存続することができます。

恐らく、細胞や集合体である生命自身にとっても、自分たちがよりよく生きる為に必要なものは理解が及ばないのでしょう。ゆえに、概念という「経験と予測」から成る理論を指標に、我々は欲を持ち生存しようとするのです。

生命も常に暗中模索なのです。目的も分からず、ただ何となく生きている、とも言えるかもしれません。

 

 

概念の暴走によって生じる苦

しかし、認識が狭く、知恵が得られず、無明の状態にあれば、この自己の生命を維持するための概念に我々は足元を掬われることとなります。

人生に絶望し、生きることそのもの自体が苦痛となる理由、それは、生きる為に必要な概念の取捨選択を誤っているために起こります。

  • 絶対実現不可能な願望に執着すること
  • 精神衛生を保つために矛盾を孕んだ概念を盲信すること
  • 自己を守るために誤った概念を保持し続けること

過った概念を持っていると、現実と理想との間に存在するギャップを認識する力は失われます。

 

  • ただの一般人が妄執に囚われ、例えば自分が大統領になるべき人間だと思い込んだり、神に選ばれた者だという妄執を思い描いたとしても、それが実現することはありません。「歪んだ認知」は、結果的に望みが叶わないという絶望と引き換えに苦を増大させることになります。

  • 自分が劣っている人間だ、劣っている自分を受け入れられない。そのような劣等感に苛まれた状態にあると、自分の生存価値や生存欲を脅かす危険があります。そんな時、人間は現実に対する客観的な理解という努力を捨てる代償に、現実に対する歪んだ認知を得ることでこれを回避することがあります。それこそ、自分が劣等扱いされるのは、周囲の人間に正しい判断力が欠けているためだと思い込んだり、実は自分には素晴らしい隠された才能がある!と思い込んだりします。

  • 自分の立場を守るために特定の概念を保持し続けることも良くあります。落伍者たる落ちぶれた武士が、自分の武士としての誇りを捨てられず、尚も命を犠牲にしてでもその誇りに殉じることがあります。

 

根源的に、人間や生命自身が保持している「自分自身」というものもまた、各々が抽象的なものです

我々は常に概念に生を見出し、概念の内に生きているのです。

本来、「物質には自他の垣根など存在しないという事実」がこの「自他を分ける」ことの難しさを助長させているのでしょう。 

 

何故、苦しむのか?

何故、苦しむのか?何が原因で苦を生じるのか?

苦の起承転結に対する明確な理解があれば、それは苦ではなくなります。

苦しみは、自分が在るべき姿、存在すべき姿を見誤っているために起こるのです

 

自分の現状に対する因果、起承転結、自他との関係、終着点を明確に理解することができれば、それは「自分の生そのものを苛む苦」ではなくなります。

苦を避ける方法、なぜ自分が苦境に立たされているかが手に取るように分かるようになれば、現状の苦のみに執着する必要がなくなるのです。

 

  • 成績が悪くて苦しい。
    そこには「多面的な事実」が存在します。自分の才能が足りない。勉強の方法そのものが誤っている。親や教師の指導に致命的な欠陥がある。勉強に集中できる環境ではない。勉強の邪魔が入る。様々な誘惑に負ける。そもそも勉強を頑張る動機がない。

現実の多面性を理解できなければ、人は自分の思考の内にある、小さな箱に現実を収めるために、現実の一部を切り取って曲解します。物事を多面的に捉えるよりも、自分が馴染んでいる一元的・単純な概念で現実を理解した方が楽なのです。

 

人間は概念を作るたびに新たな苦を生じます。

歩けない人にとっては歩くことは苦痛です。

しかし、いずれ歩けるようになることを知っていれば、その苦は自己成長を達成するための過程でしかなく、自分にとって必要な苦であることが分かります。それが絶望ではなくなるのです。

 

解釈は苦を作り出す一方で、苦は解釈次第でもはや苦ではなくなるのです。

 

解釈は、一元的な一方向性のみを有する時、そこに脱することのできない「苦の袋小路」を作り出します。 

 

 

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善と悪について【広い視野を得るために】

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親切で礼儀正しく、他人を尊重し敬う気持ちのある人、品行方正で常に人の幸せの事を考えて生きる人は「良い人」です。

社会の幸福のために尽くすことは、他者のみならず自分自身の幸福に繋がります。

何故なら、人間は皆で支え合い、助け合って生きているのですから。

しかし、自分を犠牲にして尽くしすぎることは、自分のためにはなりません。それに自分が倒れると悲しむ人もいるでしょう。長い目で見れば、自分が倒れることは、自分を大切に思ってくれる友人や家族のためにもなりません。

 

 

礼儀正しい人 無礼な人

他人に尽くす人 他人を攻撃する人

良い人 悪い人

「善」 と 「悪」 

 

我々はいつも何かを見るたびに、それが良いものか、悪いものかを「判断」して生きています。

 

良いおこないと悪いおこない、「善悪の判断」。

時にこの線引きはとても難しく、絶対に良い、絶対に悪いとはなかなか決められないものです。

 

  • 今働いている会社でひどい扱いを受けているから辞めてしまいたい。けれども、辞めると残された人や先輩に迷惑がかかる。
  • 治安の悪い場所で自分を守るために武器を携帯しなければならない。けれども、その武器で誤って人を傷つけてしまうかもしれない。
  • ある新薬を使えば、苦しんでいる人を助けられるかもしれない。しかし、未知の副作用で悪化する恐れもある。この薬を投与して病気を悪化させてしまった医者は悪人か、善人か。
  • 二人のうちの片方だけが助けられる、どちらかを必ず犠牲にしなければならない(トロッコ問題)。
  • 親の強い反対を押し切って家業を継がずに家を出た子供。成功したら善人?失敗したら悪人でしょうか?

 

善悪の判断。これは、最初から決まっているわけではありません。

 

最初にそこにあるのは、ただの物事です。ただ、そこにあっただけなのです。

「誰かが何かをした。何かを思い、行動を起こした。そして、その結果が何か起こった。」

それを良いこと、悪いことと決めているのは、自分自身です。

善・悪という線引きは、自分が勝手に作り出したものです。

 

例えば、「他人を傷つけることは悪いこと」であり、「他人を支援してあげることは良いこと」ですね。

しかし、この善悪の判断も、その人の状況や立場によって変わります。

例えば、襲ってくる暴漢を止めるために、暴漢を傷つけることは悪いことでしょうか?

いじめを繰り返している人を応援することは良いことでしょうか?

 

不治の病に絶望している人を、善意から安楽死させた医者がいました。彼は殺人犯として逮捕されてしまいました。彼は悪人でしょうか?

 

とても貧乏な男がいます。彼の娘が病で死にかかっていました。

薬さえあれば病を治すことができますが、彼はどう頑張っても薬を買えるお金を作ることはできません。そんな彼にお金を貸してくれる人は誰もいません。追い詰められた彼は、娘のために会社のお金を横領してしまったのです。

彼は横領の罪で捕まって処刑されてしまいました。彼がお金を横領したせいで会社が潰れてしまったのです。たくさんの失業者を出し、そして社長は自殺未遂まで起こしました。彼は悪人でしょうか?横領されたことを報告した会社が悪人なのでしょうか?法を順守し、彼を処刑した人々は悪人ですか?

 

目の前に汚い服を身にまとうだらしない人がいます。彼はだらしがないから悪人でしょうか?実は彼の正体は、「キアヌ・リーブス」です。

 

スマートフォンのディスプレイを作るために必要不可欠なフッ化水素。これがなければ、我々の手元にスマホはありません。しかし一方、フッ化水素はとんでもない劇毒です。身体に触れると非常に危険な毒物のひとつです。

フッ化水素は善でしょうか?悪でしょうか?

 

クルマは我々の生活に欠かせない乗り物ですが、クルマが存在するせいで、毎年国内で沢山の事故が起き、たくさんの死者が出ています。

クルマは善でしょうか?悪でしょうか?

 

リンゴは善ですか?悪ですか?

 

物を落とすことは善悪のどちらでしょう?

 

 

人間は、今持っている情報、そして今までの人生を通した経験を手掛かりとして、目の前にあるものが善か悪かを判断しています。

しかし、その情報に少し尾ひれがつくだけでも、その善悪の判断はコロリとひっくり返ってしまうのです。

 

では、一体何が善で、何が悪なのでしょうか?

もともと、目の前に起こっている物事には、善や悪はありません。そんなものは最初から決まっていないのです。

善か?悪か?それを決めているのは自分の勝手な判断です。

 

この世界には本来、善悪など存在しません。

善と悪、それは、人間の心の中だけに創られた世界なのです。

本当の世界、そこには、ただその物事が転がっているだけです。

 

 

日頃から善悪のレッテルを貼った生活をしていると、目の前に在る「悪」と決めつけた存在の、「善」の部分が見えてくることはありません。

しかし、現実では

「悪人だと思っていた人が、実は善人だった。」

「善人だと思っていた人が、実は悪人だった。」

このようなことは日常茶飯事です。

 

善悪で物事を見ていると、目の前にただ存在する「事実」は見えてきません。

自分の創り出した善悪の色眼鏡で物事を捉えていると、実は素晴らしい人を悪と決めつけてひどい態度を取ってしまったり、逆にとんでもない詐欺師を善人だと誤解して歓迎してしまったりするのです。

 

 

善悪のレッテルを貼る前の世界 陰陽

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太極図というものを見たことはあるでしょう。

これは、黒い所が陰、白い所が陽を表しています。

陰と陽を善悪に当てはめるならば、陽=善、陰=悪となります。

 

本来存在する世界は「円」です。善と悪の両方を含んでいます。

善と悪、その二つが均等に存在する世界が、この世界の本来の姿です。

 

また、善と悪は互いに支え合っています。

善が存在しなければ悪は存在できません。

悪が存在しなければ善もまた存在することできません。

 善と悪、この二つが明確に線引きされ、分けられているからこそ、善悪はともに存在することができます。

 

悪を働く者がいるから、法が作られます。

善を働く者がいるから、法は守られるのです。

 

また、善の中に黒い点があるでしょう。これは、善のうちにもまた悪が、悪のうちにもまた善が存在することを示しています。

他人を助ける善人のなかにも、口が悪い人や態度が失礼な人がいます。

他人を攻撃する悪人の中にも、家族を大切にする人や仲間を守ろうとする人がいます。

 

また、善は悪に、悪は善になることがあります。

今は良いとされていることでも、時代が変わると悪になるのです。

昔、風邪を引いた人の血を抜く「瀉血」と呼ばれる治療が一番善い治療だとされていました。しかし、現代でそんな治療を受けさせられたら、大抵の人は怒るでしょう。

今の薬を飲むという治療だって、未来にはトンでも治療になっているかもしれません。

戦争の時代はお国のために身を扮して働くことが善でした。しかし、現代では人の命を軽く扱うことは悪ですね。

善悪は時を経ることによって、コロリと入れ替わるのです。

 

このように、本当の世界は善と悪の両方を含んでおり、一方なくしては、もう一方も存在できません

善と悪、それは、本来はひとつであるはずの世界を、勝手に二つに分ける行為です。

勝手に二つに分けて、一方だけを可愛がるのです。

善ばかりを愛でていると、世界の本当の姿は見えてきません。

悪だけを働いていても、世界の本当の姿を知ることはできないのです。

 

善悪を決めるだけで、我々の視野は狭くなってしまいます。

二つの目のうちの片方が閉ざされてしまいます。

世界の半分を悪と決めつけて投げ捨てているのです。

 

 

善と悪。善だけを持とうとすると、その片割れであるはずの悪を捨てることになります。

我々は、本来ひとつであるはずの世界を、無意識のうちに狭くしています。

その善悪を決めるという判断そのものが、実は誤っているのです。

 

 

本来神によって造られた世界を、もしくはそこにただ存在するだけの現実を、

自分の都合で勝手に二つに分けて、片方だけを贔屓しているのです。

 

 

あなたが持っている善悪の判断、それは必ず正しいと言えるでしょうか?

いつも間違わず、必ず正しいことなどありません。

善と悪は入れ替わります。

あなたの善の内には悪があり、あなたの悪のうちにもまた善の種があるのです。

 

 

 

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五十肩の根本原因は、「腰」にある?【痛みの原因】

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五十肩は、肩の筋肉が炎症を起こし、腕が挙がらなくなる病気です。

 

そのメカニズム五十肩でもお伝えしている通りですが、実のところ、では何故肩の筋肉が長期的に酸欠や血行不良を起こすほどの負荷を受けるのか?医学的にはまだはっきりと証明されていません。

 

しかし、臨床の現場において、五十肩(回旋筋腱版炎)を患っている方に共通して見られるものが、「胸腰椎のアライメント異常」です。

 

要するに、何らかの原因で腰回りの体幹バランスが狂ってしまっている、ということですね。

 

 

肩の筋肉が、なんで腰と関係があるの?と思うかもしれませんが、肩回りに存在している筋肉は、実は体幹の極めて広い範囲に付着しています。

 

例えば僧帽筋は肩甲骨に付いている筋肉ですが、この筋肉は首から腰に掛けて広い範囲を覆っています。

また、肩を支えている広背筋という筋肉も、肩のつけ根から腰、骨盤までにかけて、広い範囲で存在しています。

 

実は、これらの範囲の広い筋肉が問題を起こすと、五十肩の発生率は飛躍的に高まるのです。

 

 

そこには「腰の特定の歪み」が関与していることが大半なのですが、実際に腰をぎっくり腰で壊されていたり、運動不足や筋萎縮によって下半身に問題が出ている場合は五十肩になる可能性が激増します。

 

 

基本的に五十肩は、肩の関節そのものがスムーズに動かせる場合は発生しません。

五十肩は、固まってしまった肩を無理に動かそうとした結果として生じる病気なのです。

 

肩は人間の身体の中でも特に可動域(動かせる範囲)が大きい関節です。

肩関節の自由度の高さは日常生活を過ごすうえで、我々に様々なメリットをもたらしていますが、反面、動きが大きいとその造りは繊細かつ複雑となり、ちょっとバランスが崩れるだけでも大きな問題を起こしやすくなります。

 

舗装された道を走っているクルマのタイヤは長持ちしますが、逆に未舗装のデコボコの道を走っていると、タイヤはすぐにすり減ってダメになってしまいます。

肩の健康を保つためには、常に柔軟に動く肩、そして動かしたときにスムーズな円を描く関節が必要なのです

 

例えば、もしも肩に付いている筋肉が固くなってしまうと、肩関節の動きはどうなるでしょう?

肩を前に出そうとしても、肩の後ろに付いている筋肉がガチガチに固まっていると、肩はスムーズに前に出すことはできません。

広背筋や僧帽筋は、肩を腰と繋いでいる筋肉です

これらの筋肉が固まってしまうと、腕を前に出すだけでも、肩に大きな負担をかけるようになります。

そう、これらの筋肉が長期間固まったまま日常を過ごしていると、腕や手を使う作業を行うだけで、少しずつ肩が壊れていくのです!

 

このようにして、五十肩の原因は腰にある!ケースは高頻度で見られます。

 

肩の筋肉は首・腰・胸・骨盤・・・非常に広範囲に存在しているため、逆に全身から影響を受けてしまうのです。

五十肩を治すためには、実は全身のバランスを確認することが大切なんですね。

 

 

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シュタイナー 超感覚的世界を得るための「条件」

尊敬や敬意といった感情は、本人の認識に変化を及ぼす。結果的に行動を変えることになる。

感情は物理的な現実とは分け隔てて考えられることが一般的である。

 

しかし、尊敬、経緯、畏敬などの感情は、心を健全でより強いものにし、心に活力を与える。

逆に、本来価値があるものを過小評価したり、軽蔑したり、反感をそれに感じたりすると、心の活動は麻痺し、精神は不活発に なる。

 

外側ばかりに目を向けていると、人間の内面は無味乾燥となる。

ある対象から別の対象へと心が次から次へと移り行く、常に「気晴らし」を求める人は人生で行くべき道を見失う。

 

だからと言って、外面を見るなと言っているわけではない。

常に自己の内面が心の主導権を握っているべきだということだ。

 

内面の輝きは、外面ばかりを見ていても、もたらされることはない。

それは、自己の内面を掘り起こすことによって、はじめて得られる輝きである。

ひっそりと孤独に自己沈潜する時間を生活の中に確保できたならば、万象のことごとくが、壮麗な神聖の輝きで満たされる。

 

逆に、もしも自分の自我の欲望に従うだけで人生を終わらせるなら、求めていた結果とは正反対のものしか掴めないだろう。

 

外界の事柄は、自己の内面を開示させてくれる。しかし、その答えは外面には存在していない。自己の認識力を育てることで、初めてもたらされるものである。

 

外面に執心することは、内面の固定化を招く。数知れぬ魂の誘惑である「自我」は、自身を硬化させ、自己閉鎖的なものにしようとしてしまう。

 

外面に執心するのではなく、ただ外面から常に受け取ることを「楽しむ」こと。一時の悦楽に拘り、執着する行為は自己閉鎖を招く。

 

外面を無視し、閉鎖された「自我」をいくら肥大化させたとしても、外面の世界はそんな自我を「無視」するであろう。

そんな世界にとって、自我は死んでいるに等しい。

 

 

「あなたの求めるどのようなものも、あなたの内面の財産を蓄積するためのものであるなら、それはあなたが進むべき道から遠ざける。

しかしあなたの求めるものが人格を育て、世界を進歩させるためのものであるなら、それは成熟への過程であなたを前進させる。」

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