歳を取っても身体が軽けりゃ、生きる気力も湧いてくる【ロコモティブシンドローム】
若かったころは特に何もしていなくてもスムーズに動いた身体、柔軟な手足、時間さえあれば、好きな時に好きな所へ、いつでも行ける。
しかし、歳を重ねてくると、羽のように軽かった身体は徐々に衰え、肩や指先、足腰を動かすことは難しくなっていきます。
立つことや歩くことさえ支障が出るほどの身体の衰え、この状態は、ロコモティブシンドローム(運動器症候群)と呼ばれます。
時間もお金もある。けれども、身体が言うことを聞かない・・・
自由に動かない身体というのは辛いものです。
運動不足や不摂生は身体が衰える原因となります。
しかし、例え運動や栄養バランスをしっかり意識していても、ロコモティブシンドロームは起こります。
特に筋肉や関節を衰えさせないために必要なものは、結論から言えば「運動」なのですが、その運動を正しく行うことが難しいのです。
日頃の身体の動かし方、そして動いていないところ。ロコモを解消するために一番大切になるのが、日頃から動かしていない部分と動かしている部分の差を埋めることです。
いつも腕を前に出して使っている人は、腕が前に出たまま固まってしまいます。
そして、その固まった腕をそのまま放置してしまうと、いつの間にか筋肉・関節に歪んだ負担がかかります。
この状態が長く続くほど、身体は弱ってやせ衰えていくのです。
若い方にも同様の現象は起こりますが、彼らの身体は血流循環も良く、多少固まってもすぐに回復することが出来ます。
しかし、歳を取ってくると、固まってしまった筋肉を再び柔らかくする力が衰えてしまいます。
固まった筋肉に合わせて身体が動かなくなる、そして、動かなくなった身体に合わせてますます筋肉が固まってくるのです。
この状態を解決するためには、「どの筋肉が固まって問題を起こしているか?」を正しく知ることが「非常に大切」です。
身体の動きは複雑なので、どの筋肉が不調を起こしているか?を知ることは、カンタンではありません。一定以上の技術を持った施術者でなければ、これらを見極めることはとても難しいのが現状です。
しかし、もしも原因を正しく知る事さえできれば、治し方さえ分かれば今まで歩くことさえままならなかった身体が、次の日から走ることさえできるようになります。
脊柱管狭窄症と診断された80歳の方。
日頃から歩くだけで腰が痛み、歩くことさえやっとでした。
1か月後、この方は駅の階段の上り下りさえスムーズに行うことができるようになりました。
腰椎ヘルニアと診断され、杖が手放せなくなった74歳の方。
座り立ちで腰が痛み、歩き出すこと自体が難しい状態でしたが、最終的にストレッチだけで痛みなく、特に問題も出ずに歩けるようになりました。
何故、このように症状を改善することができるのかと言えば、痛みの出る場所ばかりを注目せず、身体全体のバランスを診ることで、どの筋肉や関節が問題を起こしているかを知ることができるからです。
腰に問題があると思っていたものが、意外にも原因が肩回りにあったりします。
痛みの出る原因は、その方によって千差万別。まったく異なるのです。
ひとり一人の体質に合わせて丁寧に身体を知ることが、症状を治すために最も大切なポイントであると、私は思います。
健康であることは良いものです。身体が動かなくなって、初めてその有難さが分かります。
誰の世話になることもなく、子供にも迷惑をかけず、悠々自適に好きな場所へ行き、好きなことができるのですから。
介護が必要になると、そうもいきません。人の手を借りて生きるのがやっと。
自分は動けず、好きなこともできず、ただ生きるだけで苦しい。
しかし、介護してもらっているだけでも申し訳ない。ワガママを言うわけにもいかない・・・。
健康を壊すと、自分にとっても、周囲の人にとっても負担になってしまいますよね。
健康を保つためには、悪く成り切る前に正しい施術を受けること!予防が最も早道であり、健康を維持するためには最大の良薬です。
指で全身をトレーニング!?【筋膜コアトレ】
最近なまってきたなー・・・
運動しなきゃなー・・・
アタマでは解ってるけど、腹筋はつらい、腕立てもきつい、ジョギングはさらに面倒・・・。
そんなあなたに朗報です!!
今回は、とてもカンタンに全身を刺激できる運動法を、お伝えしちゃいます!!
主に動かすのは「指だけ」です。寝起きでもカンタンにできる運動ですよ!
カンタンなのに、全身の血流を上げる効果があります。
上半身の運動
基本的には立ち上がったまま、腕を前に伸ばして行ってください。一番効果が出るでしょう。
無理そうなら座ったまま、もしくは寝たまま腕を頭の方へ伸ばしながら行ってください。
握りこみ
拳を作り、ぐっと握りこんで力を入れます。小指から親指まで全体で力を入れるように。リズム良く行いましょう。
指曲げ運動
掌は広げたままで、指だけを握ります。握り切ってからグッと力を入れるのを忘れずに。
掌のストレッチ
掌を大きく広げます。掌のスジをしっかりストレッチしてください。小指と親指が出来る限り離れるように意識しましょう。
寝起きにしていただくだけでも、かなり効果がありますよ。
下半身の運動
足を伸ばしたままで、手の運動と同じように行いましょう。
握りこみ→指曲げ運動→足の裏のストレッチです。
余裕があれば、立ち上がって行うなら踵を地面につけたまま、もしくは膝をしっかり伸ばしながら行えるとベターです。
上半身・下半身それぞれ3つ。ひとつの運動につき1分ずつ行ってください。
終わるとあら不思議、身体が軽くなっているはずです!むくみやだるさも取れますよ!!
ただし、もしもちょっと動かすだけでひどい痛みが出るようなら、すぐに中止しましょう。無理ゼッタイはいけませんからね。
人間の意思の源泉と所在 魂と意識の話【考察】
人間の意識や意思、魂というものはどのようにして形作られ、どこから生まれるのでしょうか?
参考例として考えていただければと思います。
・・・
生物学的、遺伝学的に考えるならば、まず人間という動物の身体は、体細胞や遺伝子を含めた一個単位の生命を養うために存在していると言えます。
生命の源泉は本来一個単位の細胞なのであり、細胞の中に存在している遺伝子であり、生命とはすなわち細胞を含めた遺伝子をいかに生存させるか?という一点に集約されるという考え方です。
即ち、我々人間の意思は身体によってコントロールされているに過ぎず、身体とはすなわち体細胞、遺伝子の集合体なのです。
我々が持つ生物学的欲求を始め、五感の認知、様々な欲求は、遺伝子を生存させるために存在しているに過ぎない。個が持ちうる欲求もすべては遺伝子を生かすために存在しているということです。
遺伝子を含めた体細胞が正しく機能し、正しい欲求を発露することによって、生命の機能がはじめて維持されます。食料を確保し、身体を養わなければ我々は生きることができません。
そういう意味では、この身体を生かすための三大欲求を持つことは、自分自身を含めた人間社会を維持するためには絶対不可欠の要素であることは明白です。
全ては遺伝子を生かすための生存戦略である、という一点のみを考えた時、我々の意識や価値観念は存在価値を失ってしまいそうです。
しかりこれはある面で事実であり、全ては遺伝子の戦略に過ぎない、人生は全て遺伝子が生み出した虚像であると言えるでしょう。
意思は何によってコントロールされているか?
我々に確固たる意志が存在している理由は、遺伝子が生存するうえにおいて意識や意思というものが存在していることがメリットになるためです。
しかし、もしも生存上のメリットのみを考えた時、そこにはおかしな点が多数存在することが分かります。
我々は、社会的価値観念によって自分の生存にとって邪魔となる敵を殺したり、迫害・弾圧したりします。しかし、その自分を有利たらしめてる価値観によって、同様に自己否定や自己嫌悪を生みだします。そして、時としてそれらの価値観は己を苦しめ、自死にまで追い込むことがあります。
例えそれが正しいものの考え方を持った結果だと仮定しても、このような自殺行為が利己的な遺伝子に許される筈がありません。
自死を決めてしまう理由そのものは種々様々ですが、その価値観の内には自分の身体を第一に尊重し、最も守るべき最優先のものとするような思考はもはやありません。
奇妙なことに、人間は自分の意思によって時として本能的な欲望をも捨て去り、価値観念を尊重するために自傷行為にさえ及びます。
基本的に、人間は自分の身体こそが至上であり、最も価値があるものだとは考えてはいないでしょう。
例えば、あなたは自分の身体と精神、どちらが最も大切だと答えますか?
もしもあなたの意思が体細胞によってもたらされており、体細胞の意思によって完全にコントロールされているとしたら、肉体よりも精神を優先することなどあるはずがありません。
そのような反逆的思考をもしも持っていたなら、体細胞によって強制的にその認識を消去されていたことでしょう。
我々は時として現実の肉体よりも、心のうちにある精神や価値観、大義の方が大切だと答えます。
精神にとって、肉体とは真の意味で器に過ぎず、己自身ではないのです。
身体は精神の傀儡である
身体は、精神性や意思を優先するために常に犠牲を強いられています。
例えば、筋トレに励むだけでも体細胞はどんどん潰れて死んでいきますし、ただ歩いているだけでも接地した踵の皮膚細胞、循環を司る赤血球や歩行に使われる筋肉は常に摩耗し、自死し、消耗しているのです。
細胞個々の意識からしてみれば、これはたまったものではない暴虐でしょう。
それでも彼らは仲間の死に負けずに常に自己増殖して傷を癒し、肉体という器を保つために犠牲となり続けています。
体細胞や遺伝子はまさに人間という生命体、そして人間の持つ意識の奴隷なのであり、彼らが自らの意思でこのような現象を起こしているわけではありません。身体に刻まれたルールによって彼らは厳密にコントロールされており、彼らが自ら意思を発揮して行動することは決して許されないのです。
もしも反逆すれば、癌細胞として免疫警察に処分されてしまいます。
一方、人間の自ら持つ意思は、自分を傷つけ、殺す権利さえも与えられています。
どちらが主で、どちらが従なのでしょうか?論ずるまでもないような気がします。
生命が集合したとき、そこには新たな意志が生まれる。
例えば、集合すると一個体の生物として動き始めるある種のアメーバがいます。彼らは、自ら集合し時としては手足となり、様々な圧力に耐える犠牲者となることによって、この大きな一個体を死ぬまで保つようになります。興味深い現象ですね。
細胞のような小単位の存在が集合した時、そこにはまったく別の意思をもった新たな生命が生まれます。そして、その新たに生まれた生命は今までの細胞とは全く別の世界を認識し、意思を持って動き始めるのです。
この意思はいったい、どこから生まれたものでしょうか?
もちろん、生命が存在するためには体細胞を最低限養うことが絶対条件です。そのため、体細胞のすべてを自滅に追い込むような欲求を生命体が持つことは許されません。
しかし、その新たに生まれた生命は、自己を健全に保つために時として体細胞に犠牲さえ強いることがあります。
この大きな生命が自己を生存させるためには、今まで個々の体細胞が認識してきた世界とは、まったく異なる新たな次元を生きる生命である必要があります。
細胞が生き認識している次元と、一固体の大きな生命が認識している次元には大きな差異があるのです。
細胞にとっては自己生存が大原則ではありますが、大きな存在の意思に従って働き、犠牲にさえなる命令にも従います。また、大きな生命にとっても細胞のひとつひとつよりも、大きな総体としての自分自身を生存させることが第一優先であり、そのためには細胞や身体の生存は基本的に二の次となります。
しかし、そんな大きな生命も、社会性を尊重し、法を守るという大原則に縛られており、この奔流に逆らうことは許されません。
社会というひとつの巨大な生命を守るためには、大きな生命である一個人もまた犠牲を強いられることがあるのです。
このように、生命とは大きくなればなるほど、そこに新たな生命を生み出し、そこに別次元の意思を持つ別固体をもたらすことになります。
ある意味では、我々は人間という動物の身体に寄生している意識体であるとさえ言えるでしょう。
この大きな生命の意思は、体細胞によりもたらされたというよりも、大きな生命が置かれた環境に適応した結果、そのような形にされたと考える方が妥当です。
すなわち、大きな生命の魂の形は最初から大地や宇宙の環境という「遺伝子」によって初めから決定されており、その決定された形を顕現するために人類という生物が媒体として利用された、と言えるかも知れません。
すなわち、人間の細胞がヒトの意識を作り出しているのではなく、どちらかと言えば「作らされている」と言った方が正しいのです。
環境という雛形に我々の肉体は嵌められているのみであり、そこには細胞の意思そのものが優先されることがないと言えるでしょう。
我々の意思は体細胞を原料とし、環境という遺伝子によって形が決定し創造されています。
その環境とは、物質そのものでもあり、宇宙からもたらされたモノであるとも考えることができるのです。
承認欲求についての一考察【承認欲から生じる苦しみ】
一人前の人間として生きる為には、達成すべき目標や得るべきものを自分の意思で定め、自分から努力し達成するというプロセスが必須である。
自分の意思で得るべきものを決めるならば、それは必ず自分自身の為にもなるものでなければならない。
生きる為に必要なものを調達し、人生で何を得るか?
もしも自立したひとりの人間として生きるならば、これらは全て自分自身の意思で決定し、自ら進んで行動しなければならない。
しかし、いったい何が自分に必要なものなのか?これを正しく見極めることはカンタンではない。
自分にとって必要なものは、己の目標や社会的立場、身体的特徴によっても大きく変わる。自分に必要なものをを見定めることは、実はとても骨が折れる作業であり、正しいと思われる答えを見つけることは難しいものだ。
そもそも、子供は必要なものを自分の力で得ることはできず、その生存をもっぱら親に依存している。親が食べ物を与えてくれなければ満足に食事を摂れないし、親が認めてくれなければ守ってくれる人もいなくなってしまう。
即ち、弱者である子供にとっては、親に気に入ってもらい、庇護を得られるかどうか?この一点に、自分が必要なものを得、かつ満足に生きることが出来るか?が集約されてしまっているのだ。
子供の頃は物理的にも精神的にも非力であり、自分を守るための知識も知恵もない。
そのため、どうしたって親に頼らざるを得ないのである。
親はそんな子供が自立していけるように正しい知識を与え、生きる為の考え方や技術を教育し、独立しても一人で生きていけるような智慧を与えることが理想だと言えるだろう。
しかし、世の中そんなに簡単にはいかないもものだ。
子供の力を借りて権力を得ることに執心する親もいれば、逆に自立する力を持っておらず、誰かに生きる道筋を判断してもらわなければ生きることができない親もいる。
いや、むしろ実際には支配や依存をまったく行わない親の方がはるかに稀である。
依存や支配も決して悪いことばかりではない。多くの人間が集まり目的やルールを共有し、依存し合うことができるからこそ、例えば国家は極めて強い権力や誇りを各人で共有できることに繋がる。
依存という行為そのものは、自分の生き方を自分で賄わずに、企業や業者に外注しているに等しい行為である。生きるための道筋を経営コンサルタントや弁護士、ライフアドバイザーに依頼しているようなものだ。すなわち、そこには必ず利益と費用が発生する。
自分の生き方を外注する代わりに、その外注先には必ず対価を支払わなければならないのだ。
社会は互いに依存しあい、利益を享受し合って生きている。
依存や承認欲求を持つことで差し出している自分の労力は、コンサルタントに対して発生する費用なのであり、決して承認欲を持つことそのものは悪いことではないのである。
ただし、その承認欲求や依存を購入する相手先は慎重に選ばなければならない。
もしも、自分がのべつ幕なしに、誰からでも承認を購入しようとするとしたら、不当に高い代金を吹っ掛けられることだって当然ある。
「いくら出してもいい、お前の承認を売ってくれ!」と叫んでいるようなものだ。
ウィンドウショッピングに置いてある全ての商品を自腹で独占しようとするようなものだ。
このようなことを続けていたら、当然破産してしまう。
誰だって、買い物をするときは値札を見て慎重に買うかどうかを決めるだろう。
しかし、承認欲求の強い人は、この心のタガが外れているのだ。
承認欲求によって苦しめられている人は、承認欲求の購買意欲が強すぎる。
度が過ぎた承認欲は実は物に対する支配欲・独占欲に等しいのである。
自分が支払える金銭は有限であるにも関わらず、ブランド物を買い漁る者と、実は思考が同じなのだ。
皮肉なことに、現実に承認欲求が強い人間ほど、ブランド物に目がなかったりするが。
人間の欲というものは突き詰めればキリがない。自分の人生を自分で管理したくない、自分で自分の手足を動かしたくない、自分の頭で目の前の物事を判断したくない。動きたくない。ずっと寝ていたい・・・
自分の力で自分自身が生きることを放棄するほど、他人に依存する必要は加速度的に増大し、その費用は最終的に自分自身に大きくのしかかってくる。
他者に与え、他者から頂く。このバランスを欠けば欠くほど、自分に降りかかる損失は多大な大きなものとなっていくのである。
与えすぎてもいけないし、貰おうとしすぎてもいけない。両方とも他者に何かを押し付けようとする、責任放棄の姿勢に等しいためである。
自分が他者に何を押し付けようとしているかを自覚すること。これが、承認欲求によって生じる苦から脱するポイントである。
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実は全身が記憶装置?苦痛を感じるメカニズム
自分が何らかの精神的苦痛を感じる時、その苦痛は体のどこかを介して感じている、実際に苦痛を感じ取れるように身体を使って苦痛を表現しているという事実はご存じでしょうか?
身体というのは不思議なもので、精神的にせよ、身体的にせよ、苦痛を感じるためには、実際に身体自体に痛みや不調を持っていなければなりません。
実は、身体の痛みや不調を介さないと、人間にはそれが苦痛だと認識できないのです。
自分が精神的苦痛だと感じるものでも、肉体でその苦痛を再現・出現させているから、その苦痛が現実のものとして実感できるわけですね。
もしも人生において何らかの行き詰まり、問題を抱え続けていると、身体はその問題を常に認識できる状態に維持しようとし、その問題をいつでも感じられるように、常に身体をゆがめた状態に置いておくようになります。
すなわち、言い換えれば、身体自体が「苦痛の記憶装置」と言えるわけですね。
これは特に苦痛に限った話ではなく、実は様々な情報の貯蔵庫(コンデンサー)として、身体全身が機能しています。
例えば、長い間特定の心理的問題を抱えていると、身体もそれに合わせて変化するため、もしも現実的にその問題が過ぎ去ったとしても、身体がそれを覚えているために苦痛から脱出できなくなることがあります。(トラウマやフラッシュバックなど)
これらの苦痛を解消するためには、身体に貯蓄された記憶をゆっくりと流し、蓄えられている苦痛を解消していかなければなりません。
そのために、整体や矯正、ヒーリング、瞑想が一助となりうるでしょう。
もしもストレスが非常に多い環境にあれば、例え食べ物や睡眠時間、生活リズムが全く同じ生活をしていても、腸内環境は変化し、血流は低下し、体温が下がり、腸内の悪玉菌がこれでもかというほど大量になります。結果的に下痢や腹痛、皮膚の失調や体力低下を伴うようになり、嫌でも体調不良を実感するようになるでしょう。
また、日頃からネガティブな事ばかりを考えている人は姿勢が丸くなり、全身の筋肉は硬直します。そして固まった姿勢によってネガティブな感情は固定されるようになり、ますます否定的な思考しかできなくなってしまうのです。
このように、身体は全身が心や感情を表現している舞台装置として機能します。
苦痛に対する抵抗性は、身体が健康であるか?代謝が正常であるか?頑健な身体であるか?が著しく関与しています。
精神論、根性論が通用するためには、実はそれに耐えられる強靭な肉体が必要なのです。
現代人がストレスに弱くなっている理由は、仕事や環境の変化もさることながら、運動不足によって姿勢が固まっていることも一助となっているかもしれません。
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現実を正しく認識する【正見識の意義】悟りの真義と新義
現実を正しく認識する、ということは、まさに現実と自分抱いた脳の妄想とのギャップを認識し続けるということです。
人間というのは厄介なもので、目の前のものをこうだ、と認識した瞬間から、その過去に囚われ始めます。
そして、一度そうだと決めてかかったものが実は違う形をしている、という事実と直面すことを嫌がるのです。
「この人は自分を褒めてくれたからいい人だ。」
もしかすると、いい人だという認識が誤っているかもしれません。
けれど、そもそも、「褒めてくれた」という事実さえ誤っていることがあります。
人間の念というのは複合的なもので、ただ一つの純粋な動機をもって行動するなんてことはありません。
ある意味では化学反応の集合体とも言えるため動機などないとも言えるし、様々な動機や原因がその行動の基盤に存在しているため、探ることが無意味だとも考えることができます。人は他者を褒める時も、常に嫉妬、賞賛、気遣い、憎しみ・・・様々な感情を複合的に持って行動するのです。そして、それぞれの感情の源泉は、各々が異なっています。
すなわち、ひとつの事実を理解したからと言って、それは現実を正しく見ていることにはならないのです。
これは科学的見地から見ても事実であり、この視野の広さに対する理解こそが、霊的視野、悟りへと真に至れるかを決定するのです。
実は、真に悟りを得た者は、自分が悟った者だと自覚している者ではありません。
サーリプッタ尊曰く、「自分以外の他者全員が悟りを得た者だと認識できる人」のことです。
どのような意味なのでしょう?
ヒントは陰陽と表裏、車輪の両輪とイデアの法則、ハイアーセルフです。
ひとつポイントを述べるなら、「自分自身はどのような知識を得ても、どれだけの智慧に溢れていようとも常に無知である」という事実です。
覚者とは自分だけが覚者ではなく、周囲まで覚者にしてしまう人なのである、と言えるかも知れません。
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感情と身体の関係 【感情と健康】 心身一如
日ごろ、持ちやすい感情はありますか?
怒りっぽい、心配性、イライラしやすい、調子に乗りやすい・・・
人によって傾向は様々ですが、日ごろからひとつの感情に囚われていると、ストレスに苛まれて健康を壊してしまいます。
あなたは、感情というものがどこで作られると思いますか?
脳の化学反応でしょうか?魂の意識?それとも言葉ですか?
・・・実は感情というのは、肉体なくしては存在できないものです。
肉体の動き、すなわち身体のジェスチャーが伴わなければ、人はそれを感情と認識できません。我々の身体はそのように作られています。
試しに、全く身体を動かさずに怒ることが出来るか、悲しむことができるか、確認してみてください。
多分、ほとんどの方ができないと思います。想像できても、その感情を持つことはほぼできないでしょう。
すなわち、感情というものは身体のジェスチャー、すなわち姿勢によって成り立っているのです。
では、ここから考えてみましょう。常に同じ感情を持ち続けるためには、身体はどうなる必要があるでしょう?
怒るためには、腹筋の特定の場所を固くしていなければなりません。
その状態を維持しなければ、怒りは維持できません。
では、常に怒っている人の腹筋はどうなってしまうでしょう?
ずっと起こり続けていた結果、腹筋は凝り固まってガッチガチになってしまいます。
そして腹筋をガチガチに固めた結果、それによって割を食う腰の筋肉や股関節は当然痛みます。
これが原因で肩こりや腰痛を起こすかもしれません。
そして痛み止めを射って誤魔化したり、頑張って腰や肩をもみほぐすのですが、一向に治る気配がありません。
このようにして、感情の偏りが激しいといずれ健康を壊してしまいます。
最悪、内臓の病気や癌でさえ、感情が原因になるのです。
感情は、一般的に思われている以上に、身体の内部や代謝を大きく変化させているのです。
東洋医学は古来よりこのメカニズムにしっかりと着目していました。
- 怒る者は肝臓を傷む。
- 喜ぶ者は心臓を傷む。
- 思い悩む者は消化器を傷む。
- 心配ばかりする者は肺を傷むのです。
自分自身の感情を観察し、どのような状態にあるかを自覚することは、健康を維持するうえで非常に重要です。
表面的な言動のみならず、自分の感情や思考がどのように動いているか?日頃から意識することは大切です。
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