承認欲求についての一考察【承認欲から生じる苦しみ】
一人前の人間として生きる為には、達成すべき目標や得るべきものを自分の意思で定め、自分から努力し達成するというプロセスが必須である。
自分の意思で得るべきものを決めるならば、それは必ず自分自身の為にもなるものでなければならない。
生きる為に必要なものを調達し、人生で何を得るか?
もしも自立したひとりの人間として生きるならば、これらは全て自分自身の意思で決定し、自ら進んで行動しなければならない。
しかし、いったい何が自分に必要なものなのか?これを正しく見極めることはカンタンではない。
自分にとって必要なものは、己の目標や社会的立場、身体的特徴によっても大きく変わる。自分に必要なものをを見定めることは、実はとても骨が折れる作業であり、正しいと思われる答えを見つけることは難しいものだ。
そもそも、子供は必要なものを自分の力で得ることはできず、その生存をもっぱら親に依存している。親が食べ物を与えてくれなければ満足に食事を摂れないし、親が認めてくれなければ守ってくれる人もいなくなってしまう。
即ち、弱者である子供にとっては、親に気に入ってもらい、庇護を得られるかどうか?この一点に、自分が必要なものを得、かつ満足に生きることが出来るか?が集約されてしまっているのだ。
子供の頃は物理的にも精神的にも非力であり、自分を守るための知識も知恵もない。
そのため、どうしたって親に頼らざるを得ないのである。
親はそんな子供が自立していけるように正しい知識を与え、生きる為の考え方や技術を教育し、独立しても一人で生きていけるような智慧を与えることが理想だと言えるだろう。
しかし、世の中そんなに簡単にはいかないもものだ。
子供の力を借りて権力を得ることに執心する親もいれば、逆に自立する力を持っておらず、誰かに生きる道筋を判断してもらわなければ生きることができない親もいる。
いや、むしろ実際には支配や依存をまったく行わない親の方がはるかに稀である。
依存や支配も決して悪いことばかりではない。多くの人間が集まり目的やルールを共有し、依存し合うことができるからこそ、例えば国家は極めて強い権力や誇りを各人で共有できることに繋がる。
依存という行為そのものは、自分の生き方を自分で賄わずに、企業や業者に外注しているに等しい行為である。生きるための道筋を経営コンサルタントや弁護士、ライフアドバイザーに依頼しているようなものだ。すなわち、そこには必ず利益と費用が発生する。
自分の生き方を外注する代わりに、その外注先には必ず対価を支払わなければならないのだ。
社会は互いに依存しあい、利益を享受し合って生きている。
依存や承認欲求を持つことで差し出している自分の労力は、コンサルタントに対して発生する費用なのであり、決して承認欲を持つことそのものは悪いことではないのである。
ただし、その承認欲求や依存を購入する相手先は慎重に選ばなければならない。
もしも、自分がのべつ幕なしに、誰からでも承認を購入しようとするとしたら、不当に高い代金を吹っ掛けられることだって当然ある。
「いくら出してもいい、お前の承認を売ってくれ!」と叫んでいるようなものだ。
ウィンドウショッピングに置いてある全ての商品を自腹で独占しようとするようなものだ。
このようなことを続けていたら、当然破産してしまう。
誰だって、買い物をするときは値札を見て慎重に買うかどうかを決めるだろう。
しかし、承認欲求の強い人は、この心のタガが外れているのだ。
承認欲求によって苦しめられている人は、承認欲求の購買意欲が強すぎる。
度が過ぎた承認欲は実は物に対する支配欲・独占欲に等しいのである。
自分が支払える金銭は有限であるにも関わらず、ブランド物を買い漁る者と、実は思考が同じなのだ。
皮肉なことに、現実に承認欲求が強い人間ほど、ブランド物に目がなかったりするが。
人間の欲というものは突き詰めればキリがない。自分の人生を自分で管理したくない、自分で自分の手足を動かしたくない、自分の頭で目の前の物事を判断したくない。動きたくない。ずっと寝ていたい・・・
自分の力で自分自身が生きることを放棄するほど、他人に依存する必要は加速度的に増大し、その費用は最終的に自分自身に大きくのしかかってくる。
他者に与え、他者から頂く。このバランスを欠けば欠くほど、自分に降りかかる損失は多大な大きなものとなっていくのである。
与えすぎてもいけないし、貰おうとしすぎてもいけない。両方とも他者に何かを押し付けようとする、責任放棄の姿勢に等しいためである。
自分が他者に何を押し付けようとしているかを自覚すること。これが、承認欲求によって生じる苦から脱するポイントである。
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