喧嘩という名の立場の奪い合い
スポーツで自分を上回る選手がいて、その選手の存在が邪魔になったとき、あの手この手を使ってその選手を邪魔しようとする人がいます。たとえルールを破ってでも。
しかし、そうまでしても自分が成功しなれけば目的が達せられないことがあります。
立場、資源、物資の奪い合い、戦争のそのようにして起こった事でしょう。
奪い合いは愚か、殺し合いは無益とは言えど、限られたものを取り合う以上は戦うという選択肢も否定できるものではありません。
実際、互いに攻撃しあい、蹴落としあいは、現代社会でも日常的に起こっていることです。
特に先に挙げたスポーツ選手がそうですが、自分が得られる社会的評価が社会的な生死に直結することもあるため、時として自分が生き残るために他の選手を蹴落とすことは非常に有効な選択になりえます。
他にも、消極的にでも他人を攻撃しなければならないケースもあります。
狂犬が襲って噛みついてきたり、強盗が家に押し入って包丁で自分をめった刺しにしようとしてきたときは、やはり自分の身を守るために戦う必要がでてきます。
戦う、戦わないという選択を下すことは、とても難しいことではありますが、まずは包括的な観点から考えてみましょう。
例えばあなたが非暴力を訴えている立場である場合、あなた自身が当事者でなければ、どのような判断を下しますか?
強盗が押し入り、人をめった刺しにしようとしている、あなたはどちらを止めるでしょうか?殺されそうになっている人に暴力をふるうことを許可できるでしょうか?強盗を咎めることはできますか?あなたがもしも強盗だとしたら、悪いのはどちらですか?
あえて言いますと、自分さえ戒を守れればあとはどうでもいいという考えは、ある点から視点から見れば、極めて身勝手な行為です。
もしも自分が守らなければならない戒があったとして、それが社会のために守られているという自覚があるのならば、他人にもそれを守らせなければなりません。
そう、少なくとも、他人に自分を傷つけさせてはならないわけです。
それは他人を傷つけることと同じ行為です。
もしも刺される側の自分が社会的に必要不可欠な人材だったら?もしも積極的に殺されたのなら、あなたはその貴重な人材を殺したのと同じ責任を持ちます。
しかし、カルマという点から考えると、傷つけさせることは悪である、と一概にも言えません。
自分が傷をあえて受けることで、自他ともに業を解消できる場合があるのです。
もしも以前に自分が他人を傷つけてひどく怒りを買っていたとしたら、あえて自分が反省し、自ら積極的に傷付くことで他人との関係を円満にできることがあります。
場合によっては、命を絶ってでも行動に移した方が、のちに繁栄を築けることもあります。
だからと言って自己犠牲が素晴らしいと手放しに述べるつもりはありませんが。
結局のところ、あれは良い、これは悪い、他人を傷つける行為は絶対にいけない!という一辺倒な考えではなく、その場と状況、他人の持っている価値観念、カルマを考慮したうえで、広い視野で起承転結理解して判断を下せば、どのようにすべきかが自ずと見えてくるのだと思います。
人を傷つけることは基本的に悪いこと!ですが、時としてそうとは限らないことがあるということですね。
あなたはこのような時、何を優先するでしょうか?
何を思い、どう行動しますか?
結局は、自分が社会的にどのような立場にあり、どのような影響を与える存在か?そしてその結果どのような業を背負っているかは、個人によって違います。
そして何をすべきか、どのような結論を下すかも。
その点から、今の自分が自分の持てる視野を尽くして決定し、行動する。その結果を受け取ることこそが、現在の自分を成長させ、さらに広い視点を得ることにつながるようです。
最終的な広い視点は自他を区別しません。その高い視野から見下ろした結果、自分や他人が傷つくという選択が最良のこともあれば、また逆もしかりなのでしょうね。