社会的立場の強さと第二チャクラの関係 自立心とは?
第二チャクラと自立心
第二チャクラは主に肉体の質、転じて筋肉の質、血液循環や感情を管理する役割を果たしていますが、社会的立場や地位といった人間関係や、自立性を養うチャクラでもあります。
(厳密には第一チャクラと第二チャクラが合わせて機能しています。)
自分自身がしっかりと自立した人間として、自分で自分自身を支える力を得るためには、実は社会的な支持を得ることが必要不可欠です。
自分を完全に自分だけの力で支えることは人間にはできません。
社会、環境、基盤の整った生活があり、そこに初めて自分自身を活かすことのできる盤石な地盤が整い、自立した自分、しっかりと根が座った自分自身が出来上がるわけです。
事実例として、様々な有名人や大企業の社長、引く手あまたのトップエリートは社会的に自立した強い人間ですが、彼らの誰一人として、他人の助けなくしては生活さえままなりません。
特に第二チャクラは物質世界の「質」と極めて密接な関りがあります。
ある意味では「物質の質量」を感じるためのチャクラです。
そして、人間の社会的立場や自立性は、この「物質」と極めて似た振る舞いをしているものでもあるのです。
あなたの社会的立場は物質そのもの
現実、すなわち物質世界の原則は、自分の心ひとつで動かせるものでもなければ、気のせいだで無かったことにすれば、解決するものでもありません。
目の前に横たわる巨木を、信念だけで消し去ることはできないのです!
物質的な結果は、精神的な信条や心理、感情よりも、一切、誤魔化しがきかない世界なのです。
あなたが現在持っている立場、社会的地位、自立性は言い換えれば、あなたの持っているお金です。
あなたの考え方を変えれば、お金は降ってわいてくるでしょうか?自然にじゃぶじゃぶ増えていきますか?価値が途端に上がるようなことがあるでしょうか?
そんなことは、ありません。
そう、そのお金と同じように、社会的な自立性、立場というものも、自分の心だけで変えることは、決してできないものの一つです。
経済において、物の価値というのは社会全体の同意があるから成り立っています。
100円が100円としての価値を持つためには、そこに自分の心情や信念は全く関係なく、自分以外の他人、社会全体が「これは100円の価値がある」と認めていなければそれは価値を持ちません。
そして、この原則はあなた自身の社会的価値においても同じなのです。
あなたの社会的価値、すなわち、自立している人間か、立場がしっかりしている人間か?という評価は、あなたが決められるものではないということです。
それは、社会に生きるあなた以外のひと、あなた以外の他人の一人ひとりが、あなたに対して下す評価で決まります。
もしもあなたが社会的に価値のある存在だと認められれば、まさに社会からその通りに扱われますし、逆に無価値だと断じられれば、当然杜撰に扱われることもあるでしょう。
これは、自分自身の心では、コントロールできません。どうしようもないことです。
目の前にある現実です。物理現象なのです。あなたが手にしているお金と同じで、勝手に増やすことも、消すこともできません。
そう、他人の心というのは、あなたにとっては物理現象、物質なのです。無かったことにも、勝手に作り出すこともできないのです。
そして、そんな物質世界から与えられる評価によって、あなた自身が自分をしっかり支えられるかが決まります。
何故なら、社会的に価値のある人間だとみなされれば、相応の支え(経済的支援、人的支援)を受けることができるからです。
人間という生き物は、環境によって生命を支えられています。その事実は看過するべきではありません。
恵まれた環境なら自分を支えることも容易でしょうし、過酷な環境にいるなら、自分をしっかり支えることが出来なくて当たり前です。
そう、その環境とは、まさに他人があなたに対して持っている評価や、実際に所有していると金銭の量に左右されるのです。
これは抗いがたい事実です。
真に自立心を養うためには
環境的な支えを失っている人は、この第二チャクラにおける自立心を本当の意味で所有することはできません。
第二チャクラは、自分の身体の質のみならず、周囲の環境の質、人間関係によって与えられている評価の質を感じ取るチャクラなのです。
もしもあなたが感じたくない質のものが現実に多ければ多いほど、このチャクラは詰まります。
詰まらせれば感覚が薄くなるからです。感じなくて済むからです。
そして、もしもあなたが自分を支えることができないと感じるなら、それはそのような環境に身を置いてしまったあなた自身の責任です。自分と社会との間に適切な関係を作り、コミュニケーションを取ることを怠ってきた結果です。
現実というパートナーをネグレクトして放置し、コントロールできていなかった場合、あなたは社会的な自立心を失ってしまうのです。
たとえを挙げるなら、理想と現実とのギャップ、乖離です。
自分が社会的にこうあるべき、こう扱われるべき、という理想と、現実であなたが社会から認められている立場がしっかりとマッチしていないわけです。
現実という恋人を無視して空想にふけっていた結果、恋人に愛想を尽かされてしまった、まるで妻から実家に置いて逃げられてしまった夫のように。
この理想と現実とのギャップがひどくなるほど、自分がその場に立っている、という感覚はどんどん失われ、二本の足で立っている感覚は薄れていき、まるで常に宙に浮いたような感覚にとらわれるようになるでしょう。
改めて言います。
最大の問題は理想を持つことではありません。現実を直視しないことです。
理想を持つのは素晴らしいことです。しかし、それも現状の自分自身、現実に今、あなたが所有している「本来の自分」を見失っていると、どのように進み、努力すればいいかが分からなくなってしまいます。
これはカルマが作られる仕組みの一端です。カルマとは、エネルギーをせき止めることによって作られるのですが、この場合せき止めているのは現実からもたらされているエネルギーなのです。
他人はあなたを好きなように評価します。そして、それは現実であり、事実、その人から見ればあなたはそのような存在なのです。これは事実です。
気に入らないからと言って、その人をいくら非難しても攻撃しても、そのように見られたという事実は何ひとつ変わりません。
また、そう見られたことに対して絶望する必要も全くありません。
その評価を真正面から受け取ることができるからこそ、あなたは自分の現状を正しく認識できるのです。
他人があなたに下した評価は、あくまでも現実の一側面、断片、切れ端です。しかし、それは断片として、厳然たる事実なのです。
視野を広く持ってください。その断片を片っ端から集めれば、包括的視点が得られます。
あなたが真にどのような状態であるかが解るのですから。
真の自分の姿は、美しい部分、醜い部分の両方があります。
中には見るもおぞましい、直視するのが耐えがたい部分さえも。
しかし、だからこそ、それを正しく見つめ直すからこそ、自分の理想にどのように近づけるかがたちどころに理解できるようになります。
これこそが、真の意味での高次元の視野です。
高いレベルから見れば、強い自立心というのは、現実と自分自身の霊性(高い道徳観念、主義、方法論と知恵)が合わさり、上手くマッチすることで初めて得られるものです。
自分の霊性と現実がマッチしていないと、もしも現実的にあなたが恵まれた環境を一時的に得られたとしても、その正しい取扱い方がわからなければ、それは所詮一時しのぎです。
いずれ使い果たして失ってしまいます。宝くじのように。
自立心を得たいならば、真に得るべきは現実に対する正しい理解、そして現実に向かい合い、正しく現実を扱いこなす知恵です。
現実という「存在」と向き合うことは、自分の内面と向き合うことと同義です。
もしも現実と向き合うことに強い抵抗を感じるならば、それだけ、あなた自身が現実と呼ばれる自分自身の内面と向き合うことをほったらかしにしてきた証拠です。
現実というあなた自身の内面と、正しく向き合い、理解して、「現実」というパートナーを愛してあげるようにしましょう。
社会性の垣根を超えた真の自立
本当の意味での自立性は、その対象(現実に湧き上がってくる問題)と正しく向かい合うことで初めてもたらされます。そしてその対象は、個人によっても時代によっても全く異なります。
昔は対峙する必要が全くなかった課題でも現代では対峙しなければならない壁として立ちはだかることもありますし、隣の人にはまったく必要のない課題でも、自分は取り組まなければならないということもあります。
自分が自分自身の現実と対峙する時、他人の方法は役に立ちません。
自分の持っている現実は、他人が持っている現実とは全く異なるのです。別次元を生きてるのです。
必要以上に他人を頼っても得られるものはありません。多少は参考になるかもしれませんが。
それを踏まえたうえで、自分の悲惨な現実とも向かい合うようにすれば、例え環境に恵まれていなくとも、与えられるものが少なかろうと、社会的地位がなかろうとも、その瞬間からあなたは自立した人です。
結局、人間は悲惨な現実は受け取りたくないものなのです。しかし、その現実を受け取り拒否するから、自分の支えを失ってしまうわけですね。一見悲惨なように見えても、それはあなたを支えるためにもたらされた環境からの恵みなのです。
少し理解しがたいかもしれませんが。
そう、自分が自立できない、支えを得られないのは、実際には社会的な価値観に洗脳されてしまい、本来の自分を受け取り拒否していた自分が作り出しているのです。
自分の立場と他人の立場を比べることに、実際に意味はないのです。
それが判れば他人に嫉妬することの無意味さもわかってくるでしょう。
ただし、時には競争することは自分を高めるうえで有意義ですし、立場の違いを知っておくことはとても大切ですけど、ね。