現実を正しく認識する【正見識の意義】悟りの真義と新義
現実を正しく認識する、ということは、まさに現実と自分抱いた脳の妄想とのギャップを認識し続けるということです。
人間というのは厄介なもので、目の前のものをこうだ、と認識した瞬間から、その過去に囚われ始めます。
そして、一度そうだと決めてかかったものが実は違う形をしている、という事実と直面すことを嫌がるのです。
「この人は自分を褒めてくれたからいい人だ。」
もしかすると、いい人だという認識が誤っているかもしれません。
けれど、そもそも、「褒めてくれた」という事実さえ誤っていることがあります。
人間の念というのは複合的なもので、ただ一つの純粋な動機をもって行動するなんてことはありません。
ある意味では化学反応の集合体とも言えるため動機などないとも言えるし、様々な動機や原因がその行動の基盤に存在しているため、探ることが無意味だとも考えることができます。人は他者を褒める時も、常に嫉妬、賞賛、気遣い、憎しみ・・・様々な感情を複合的に持って行動するのです。そして、それぞれの感情の源泉は、各々が異なっています。
すなわち、ひとつの事実を理解したからと言って、それは現実を正しく見ていることにはならないのです。
これは科学的見地から見ても事実であり、この視野の広さに対する理解こそが、霊的視野、悟りへと真に至れるかを決定するのです。
実は、真に悟りを得た者は、自分が悟った者だと自覚している者ではありません。
サーリプッタ尊曰く、「自分以外の他者全員が悟りを得た者だと認識できる人」のことです。
どのような意味なのでしょう?
ヒントは陰陽と表裏、車輪の両輪とイデアの法則、ハイアーセルフです。
ひとつポイントを述べるなら、「自分自身はどのような知識を得ても、どれだけの智慧に溢れていようとも常に無知である」という事実です。
覚者とは自分だけが覚者ではなく、周囲まで覚者にしてしまう人なのである、と言えるかも知れません。
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