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発達障害から見る、生きる苦しみ【コミュニケーション】

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 コミュニケーションに問題を抱える人は、社会に大勢います。

そもそも、何を問題とするかという点においても個人によって様々です。

場合によっては、それは個性と捉えられることもあるでしょう。

 

しかし、一般的な健常者の視点から見れば、明らかに常識の欠落している人間というのは、何かがおかしい、会話がズレている、態度や仕草が異質などの様々な違和感が感じられるものです。

 

健常者同士では当たり前のようにこなせる日常会話も、コミュニケーションが困難な人にとっては、会話の内容や意味が理解、特にジェスチャーや感情を受け止めることができないため、日常生活のやり取りにおいて様々な困難を生じるようになります。

彼らは、この「健常者にとって出来て当たり前」のコミュニケーション力を身に付けることが出来ません。

 

コミュニケーションというものは、お互いの相互作用によるものですので、一方的にどちらかに問題があるから障害となっている訳ではありません。

しかし、99人の目が見える人の中に、たったひとりだけ目の見えない人がいれば、社会的に不利な立場に置かれることは言うまでもないでしょう。

 

問題となる原因は種々多様ですが、性格由来のコミュ障に限って言えば、大抵は他人に合わせることができない、他人に興味がない、他人の心を理解する意欲が湧かない、または他人の存在を感覚的に理解できない、他人との適切な関りを持つ経験の圧倒的な不足など、他人に注目し、他人とのコミュニケーションを取るための意欲や能力、経験の欠如が見られることが特徴です。

他人に注目することが出来なければ、その大切さや礼儀、作法、会話力を身に付ける大切さ、機会は勿論のこと、その意義さえも理解できないでしょう。

 

我々は幼少時より無意識のうちに社会に馴染もうとする本能があるため、独力で様々な話術やコミュニケーションを身に付けます。

しかし、これらを学ぼうとする意欲が生来より全くなければ、社会生活に齟齬をきたすことは想像に難くないでしょう。

 

このようなタイプの発達障害者からすれば、他人に夢中になる人々の気持ちはまったく理解できないでしょうし、他人はただ自分の行動を制限し、束縛したがるだけの邪魔ものだと感じられても不思議ではありません。

感覚的には、会話がまったく成立しない獣の群れと暮らしているようなものです。

人に注目する、人の気持ちを理解するという能力は、彼らにとっては到底理解不能の異星人が使うテレパシーや超能力のようなものです。

 

しかし、人が人として社会で暮らし、満足に生きていくためには、コミュニケーション力は絶対不可欠な能力であることは言うまでもありません。

友人関係の構築や仕事の獲得、他人を通して学ぶのみならず、買い物から器物の扱い方まで、人間の生活はコミュニケーションを通さなくては不可能です。

 

それぞれの社会的役割や立場によって要求されるコミュニケーション能もまた異なるものではありますが、特にグローバル化された現代においては、コミュニケーションの比重はより高まってきています。

 

このように、コミュニケーション力が壊滅的に劣っている人は、現代社会を生き抜くことが非常に困難を極めますが、その障害のあり方も、それは個人によって様々です。

文化や慣習による周囲との違いがこれらを生むこともあれば、本人の持っている身体的特性、脳の障害などによってコミュニケーションそのものを直観的に理解することができない場合もあります。

 

例えば、対人関係の距離を置くことに対して問題を持つ人にも、2通りタイプが挙げられます。

  • 他人の心情を理解できない人
  • 他人の社会的立場を理解できない人

 

人の心情を理解できない人は、他人の心情を慮ることができません。

そのため、そのような人にとっては、社会的立場のみが自他の優劣を決定し、命令する側を決定することが対人関係の全てになります。

そして、他人の都合を鑑みようとせず、心を損なってしまうために、恨みや顰蹙を買ってしまいます。

例えば、会社での上下関係を優先しすぎるあまり、周囲から反感や恨みを買っていることに気付けない。

長年高い地位に胡坐をかいていた結果、その地位を失った時に応酬を受けてしまう。

下の者は上の命令にただ従順に従うことが当然だと思っている。

これは健常者と言われる人々にさえ、度々見られる事象です。(当人がもともと発達障害の傾向を持っていたとも言えます。)

例えばこのように、自分の表面的な地位を得ることだけに近視眼的に執着し続けた結果、他の様々なものを犠牲にしてしまうのです。

 

 

逆に、他人の心情ばかりを重んじた結果、社会的な立場を蔑ろにしてしまう人。

彼らは可愛そうな人には同情的です。慈悲心に溢れ、他人にすぐに手を差し伸べようともしますが、逆にすぐに他人の持ちものを欲しがってしまいます。

人間が社会を保つうえで、立場を重んじる、境界を引くという所作も、また大切な能力です。

先生や年長者を敬うことを始め、他人のテリトリーに土足で立ち入ることを躊躇う、失礼を働かないように気を使ったり、他人に余計な気苦労を負わせないように距離を置く。

自他の境界をしっかりと引くことができない人は依存心が強くなってしまい、自分の受け持つべき問題と他人の責任を負うべき問題の区別が付けられません。

自分の立場を利用して預かり知らぬ第三者に迷惑をかけたり、逆に高い立場の人に無理難題を陳情して顰蹙を買ってしまうかもしれません。

場の全てを自分が支配し、牽引していないと気が済まない、という状態になってしまうこともあります。

 

このような人々は、恐らく自力では自分達がバランスの欠いた状態であると自覚することは難しいでしょう。

彼らに共通しているのは、対人関係の「バランス感覚が欠如している」という点です。

 

例えば、身体の「平衡感覚」は内耳の三半規管が担っています。この三半規管に損傷をきたし、「バランスを取るための平衡感覚」を失ってしまうと、人間はまともに立つことさえできなくなります。

この「平衡感覚」は人間であればほぼ皆が等しく当たり前のように持っている感覚ですが、もしもこの感覚が失われてしまうと、日常生活さえもまともに過ごすことが難しくなります。

 

 

対人関係を構築するためのバランス感覚は、五感などの器官由来の感覚には含まれません。

しかし、一見すると身体は健康なように見えて、このバランス感覚が様々な理由で欠落してしまっている人は、意外と多いのです。

遺伝上の問題であることもありますが、その大半は生育環境由来によるものです。

 

これらの感覚は共通言語もなく、互いに確認する方法も確立されていません。

そのため、自分がまさか障害を持っていたなど医者から知らされることもありませんし、もしも事実だったとしても、その事実を拒絶してしまう人もいるでしょう。

 

そんなものは個性のうちだと考えることもできます。

しかし平衡感覚が欠如した人は、それが個性だと言い切れるでしょうか?

少なくとも、それが個性だとしても、自分がそのような状態にあるのだという自認は、その障害を個性へと昇華させるために必要な行為です。

 

 

日頃自分が持っている様々な「感覚」、そして他人との「感覚の相違」。

ここにスポットライトを当て、内観(観察)を行うことで、自分の特徴や傾向、場合によっては大きな弱点が見えてきます。

 

自分の弱点を直視するのは、辛いことです。

しかし、もし自分の持つ障害に苦しんでいたとしても、周囲が自分に合わせてさえくれれば問題が解決するというケースは、現実的にはほとんどありません。

自分の足は自分で動かさなければどうにもなりません。目を背け、サボってきたのは自分なのです。

障害を克服するためには、自力で立ち上がる努力と勇気が必要です。

障害があろうとなかろうと、人間ならば誰しもが人生で克服すべき何らかの問題を抱えているものです。

そのための支援を貰うことはできても、最終的に自分の問題は自分自身で解決しなければなりません。

アドラーの心理学でも、この点はよく取り上げられていますね。

他人の抱える問題は、他人が自力で解決しなければなりません。自分が抱え込む必要はありません。

であるならば、自分の問題は自分が解決する以外にないのです。

 

 

人生を通して自分に何が欠けていたのか?どのように乗り越えたら良いのか?苦痛と正面から向き合い、そして乗り越えることができれば、それは今後の人生を通して生きる自信にも繋がります。

こればかりは、年齢は関係ありません。放っておいた年数の分、成長が止まってしまっています。

むしろ年齢が培った余計なプライドが、自身の成長を阻害してしまうかもしれません。

 

 苦痛の原点を他人に求めるのではなく、自分自身の内面に求めることは、自己を成長させる為にとても大切なことなのです。

 

  

 

私は障害を持つ人を差別したいわけではありません。

障害を持つ人が、その障害を自分が持っていることを自認できているか? 

障害を克服するためには、この点が極めて重要なのです。

私自身も自分に障害を感じることは日常茶飯事ですから。

誰しもが、ある程度は障害者です。

しかし、自分の持つ「生きる上での障害」を自認できていない人は、自分の生き辛さや苦しみ原因を、大抵は他人に求めてしまいます。

 

 

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