善と悪について6【善意による悪行】
世の中、様々な善悪の判断基準がありますが、実際のところ善悪の基準は曖昧なものです。
悪行が善行となることがあれば、必要悪も世の中には存在します。
逆に当然、善意が結果として悪行となることもあります。
サボテンという植物があります。
サボテンは、主に乾燥地帯や砂漠に好んで生えており、生きるためにはほとんど水を必要としません。
逆に、水があまりにも多すぎると、根腐れを起こして枯れてしまいます。
しかし、サボテンを育てるためには水を与えすぎてはいけない!という知識を知らない人は、他の植物と同じようにサボテンにも水を与えすぎてしまうでしょう。
サボテンに水を与えた人は、純粋に善意で施しをしているわけですが、結果としてサボテンを枯らし、死に追いやってしまいます。
食べ物の好き嫌いが強すぎて偏食の傾向が強いと、ビタミン、蛋白、ミネラル・・・様々な栄養素が不足し、栄養不良になってしまいます。
過度な偏食を長期に渡り繰り返した結果、骨粗鬆症や失明、意識混濁など様々な弊害が起こることが知られています。
しかし、だからといって何でも食べることを強要すると、命に関わることもあります。
子供の好き嫌いを無くさせようとして、善意で給食を完食させようする先生。
その子供はそばアレルギーであるにも関わらず、無理に給食のお蕎麦を食べることを強要してしまいました。
結果、その子供は呼吸困難を起こしてしまいましたが、病院でなんとか一命を取り留め、事なきを得ました。
老衰間近の重篤なご老人。彼を活かすためには人工心肺装置と投薬、医師のバイタル管理が必須です。たとえ死にそうだとしても、その老人を見捨てることなど善意が許しません。
しかし、その老体を生かすために、一日500万円の資金が健康保険から支払われます。
医師の人件費、薬品と装置の費用は決して安いものではありません。一人を生かすために他の人々に莫大な金銭的負担を強いることは善行と言えるでしょうか?
「猫が可愛そうだから」という理由で、何も考えずに餌を無尽蔵にばら撒く人がいます。
餌を沢山もらった結果、その野良猫は子供をどんどん増やします。
餌を与え続けた結果、飢えた猫は減るどころかむしろ増える一方です。
しかも、増えた猫達が近所にウンチやおしっこを撒き散らし、現在も近隣住民に迷惑をかけ続けています。
強権的な支配者を打ち倒し、市民の平等と公平を尊重し、真の平和と安寧を築こうと尽力した男がいました。
彼の名を、ポルポトと言います。彼が持っていたのは、純粋な善意でした。
彼にとっては、人間同士の格差を生み出すような教育、支配体制のすべてが敵でした。
彼にとって教育というのは、人間同士の格差を拡大するためだけに存在していたのです。
現実世界に本当にあるべき天国を築こうとしたのです。あるがままの原始の生活に帰る。彼は原始共産主義という思想を打ち立てました。
彼にとっては世に君臨する支配者、インテリのすべてが敵でした。追放するだけでは飽き足らず、原始共産主義のために存在することが許されない人間を全員殺したのです。
結果的に国からは農耕・医療・文明や書物といった近代文化がほぼ一掃されました。
近代的な知識を持つ国民のほとんどが虐殺され、無知の子供のみが残されるという結果のみが残りました。
動物を殺して肉を食べるような残酷な事はできない。完全菜食主義、ヴィーガンの思想は善意一色です。
しかし、人間が正しく育ち、身体を正しく成長させるためにはタンパク質が必須です。何も考えずに無理に菜食ばかりをしていれば、肉から取れるであろうはずの必須アミノ酸はどうしても不足してしまいます。
正しい知識もなく生まれたばかりの幼児にヴィーガン食を強要し、善意のうちに、無意識に子供を餓死させてしまう人が、近年のアメリカでは続出しています。
彼らは子供を虐待した無慈悲な親として捕まりました。
根性さえ鍛えれば勝てる。そう思い込んでいた熱心なチームトレーナーがいました。
根性を身につけることが最優先!
彼は、根性を鍛えるためならば学生を殴ることも辞しませんでした。
結局、暴力を働いたとして学生の親族から訴えられてしまい、居場所を失い、学校を辞職することとなりました。
どんなに善意で行動を起こしたとしても、それが必ず願った結果になるとは限りません。
特に、狭い視野で狭い範囲しか見ていなかったり、特定の善だけに執着し、起こした行動の結果を自分で受け止めることができなければ、結果から目を背けた分だけ、その責任から逃れることは出来なくなってしまいます。
赤信号を見ていなければ、渡っても良いことにはなりませんよね。
自分が為した行為に対してその結果の責任を直視し、責任を取ろうとしなければ、自分が悪行を働いている事にさえ気づくことができません。
無知は罪である。と申します。
どのような善意があったとしても、その行動は無知であれば悪となり、善悪の判断基準を知らなければ善悪の区別をつけることもできません。
痛みを知らなければ、人を殴ってもそれを悪いことだと理解できないのです。
真の意味で善行を成そうとするならば、自分の行動に対して自分が責任を持つ姿勢が重要です。
自分自身が引き起こした結果を正しく見定めることが出来なければ、後の自分の行動を修正することもできません。
たとえどんなに悲惨な結果になったとしても、そこで反省し、修正した時にこそ、自分の善意を貫く意思と真価が発揮されるのです。