個人で悟っても他者は救えない 個人で得る悟りの限界 【瞑想の境地】
自分の抱えている問題や死への苦しみ、能力の限界や現実に対する壁を感じ、その苦痛を瞑想によって解決し、知恵によって取り除く、これはひとつの悟りです。
自分の感じているものを客観的にとらえ、それを見定めてその意義を見出し囚われないようになれば、それは苦痛を取り除く知恵となります。
しかし、自分自身の苦痛を取り除けたからと言って、同じ方法で他人の苦痛を取り除けるわけではありません。
他人に自分の方法を当てはめるためには、その経験から法則を見出し、それが他人にも通用する事実であるかを確認し、言語を用いて相手に伝えなければならないためです。
そもそも、自分と他者が置かれている状況は、環境的にも立場的にも、肉体的にも異なります。それこそ、他人も自分と同じ人間だったとしても、「同じ人」ではないのです。
自分に効いた薬が他人に効くとは限りません。他人の方法をそっくりそのまま自分が使おうとしても、その方法や道具の正しい使い方が分からなければ、真に使いこなすことはできないものです。
自分と他人では社会的立場、ものの考え方など、様々な点で違いがあります。
得ている情報や境地も違えば、悟りへと至るであろう道筋、知識や知恵、考え方さえ異なるのです。
そのため、他者の状態、現状をよく理解し、それに対して適切な指導ができなければ他人の苦痛を取り除くことはできません。
もしも他者を助けたいならば、瞑想で自分の心を探る技術のみならず、他者の心や存在そのものを探る能力が求められるのです。
すなわち、自分個人を救える者と、他人を救うことのできる者の境地は異なるのです。
もしも悟りによって自分自身を救うことができたならば、その瞬間から、他人との差異を理解し、その自他の間に横たわる溝を埋める修行が始まります。
これは、自分自身が持って生まれた業「カルマ」に対する大きな挑戦です。
もしも悟れたならば自分さえ救われればそれで良いでしょうか?
確かにそれも考え方のひとつです。
しかし、真に自分の持つ自我そのものを消し去りたいならば、この課題を避けて通ることはできないでしょう。
他人というのは、文字通り自分の鏡なのですから。
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